・蒐集王レンブラント(ベルシャザルの饗宴) レンブラントの衣装の元ネタは「ベルシャザルの饗宴」と呼ばれる絵画っす 旧約聖書のダニエル書に登場するエピソードっす ベルシャザルが神殿から略奪を行い豪華な宴会を開いたら空中に人間の手が現れて壁に文字を書き記した瞬間を描いているっす そこに書かれた字は「メネ・メネ・テケル・ウパルシン」というっす 誰もこの字が読めないので賢者ダニエルを呼びつけて解読させたところ「神があなたの治世を数え終えて審判したところ不適格だったのでバビロニアは粉々になります」という意味だと教えてくれたっす これを言われたベルシャザルはなぜかダニエルに自分に次ぐ権力を与えようとするっすがその日のうちにペルシャ軍に征服されて殺されるっす ところで絵を見てほしいんっすが「メネ・メネ」にあたる同じ語の繰り返しがどこにあるか分かるっすか https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rembrandt-Belsazar.jpg 実は字が縦書きされてるっすよ! バビロニアの人たちがなぜ文字を理解できなかったのかに対して「従来とは違う記法で書かれていたから」という解釈をしているっす ・セザンヌ 死後に評価が激変した画家はたくさんいるっすがセザンヌほど生きている間に評価が変わった表現者はなかなかいないっす セザンヌはモネやルノワールと同年代で第一回印象派展が開かれたとき35歳っす 特筆すべきはサロンでも落選し印象派展でも評判がよくなったにもかかわらず自分の絵は素晴らしいことを信じてたことっす(ゾラだけはほめてくれたっす) 落選したときは「もっと攻撃的な絵を描いて審査員の間違いを証明する」と語り印象派展の後は「より深い知性と理解力のある人が見てくれればいい」と記してるっす 印象派が第4回から分裂したのは有名な話っすがセザンヌもこの時離脱し1879年ごろから故郷のエクスとパリを行き来しながら暮らしたっす 友達との文通の他は美術界にかかわることなくひたすら絵を描き続けたっす ちなみにこのころタンギーという画商がパリにいてセザンヌは時々画材を彼から買って代金を絵で払ったってことがよくあったっす この時の絵がパリで画家たちに親しまれゴッホやゴーギャンもこの店を通じてセザンヌに触れたっす そして1895年! ゴッホが亡くなって5年後にその時は訪れたっす タンギーが亡くなって遺品を整理したときにピサロの助言を得たヴォラールという画商がセザンヌの絵を手に入れたっす ヴォラールはセザンヌと連絡を取り「もしほかにも絵があったら個展を開かせてほしい」と伝えたっす そしたらどこにも発表してない絵が150点送られてきたっす このころからセザンヌの写実にとらわれない技法は若い画家たちに大きなインパクトを与えたっす そして1900年に開かれたパリ万博ではフランス美術100年を代表する画家のひとりとして展示されるまでになったっす いっぽう本人は糖尿病を患いエクスから出なくなったっす このころの生活スタイルは朝から昼前までアトリエで絵画の制作を行い昼食をとったら野外に出かけて写生をして日が暮れる頃に帰ってきてたっす しかし屋外写生の際に雨に打たれたことが原因で肺炎を起こしなくなってしまったっす とにかくセザンヌが35年前に言っていた「審査員が間違っている」という言はついに証明され20世紀の美術に受け継がれるっす そして今は「現代絵画の父」と呼ばれているっす あっ絵の話するの忘れてたっす この衣装の元ネタは「青い服の女性dame en bleu」と呼ばれている絵画っす モデルはエクスのセザンヌ邸の使用人と言われているっす Wikipediaの記事を自動翻訳すると「セザンヌの家庭教師」と出るんっすがこれはフランス語で「家庭教師」と「独身男性に仕える女性使用人」が同じ語なせいっす セザンヌは結婚してるのになぜ「独身者の使用人」と言われるのか気になるっすよね セザンヌの妻はマリー・オルタンス・ショケという人でモデルのパートをしていたところセザンヌと知り合ったようっす ただセザンヌの実家は地方銀行の名家だったっすから父親に交際のことを伝えられなくて長いこと同棲してたのになかなか正式に結婚しなかったっす そして結婚するころには夫婦の関係は冷え切っていてショケはパリ・セザンヌはエクスで別居状態になってたっす そういうわけでショケはエクスにはぜんぜん立ち寄らず身近な使用人をモデルにしたというわけっす ちなみにセザンヌとショケはゾラの『制作』という悲惨な話のモデルと言われてるっす ・マネ >マネの偉大さを讃えるべき 当時のヨーロッパ美術界は2つの派閥に分かれていた 一方はルネサンス以来の技法と精神すなわち宗教画や歴史画で聖書やギリシャ神話の世界を表現する古典主義 もう一方は古代の世界観ではなく各国の持つ民族的アイデンティティとして国の伝統を表現しようというロマン主義 アングルとドラクロワに代表されるこの2つは激しい対立をしていたっすがそれはアカデミズムという大きな枠の中でのことである アカデミズムでは画題は古いものほど権威があって肖像画や風俗画は余技として扱う風潮があった その中にあって権威そのものに挑戦することで新しい表現を模索したのがマネっす アカデミズム画家たちが草上の昼食にキレたのは単に裸の女が描かれているからではなく絵の中にアカデミズムの根本である「伝統がすばらしい」という価値観を侮辱するニュアンスが込められていたからっすよ それも単に下手な画家がやってるだけなら笑い飛ばせるけどポーズや構図を古典から引用していたっす 続くオランピアでは技法すらアカデミズムを逸脱して浮世絵のアプローチを取り込むことでそれまでの二派の外から挑戦したっす いやー偉大っすねー >我はツァオちゃんお着換えを欲するものっす ツァオの原作はパウル・クレーの魚の魔法という絵っす https://en.wikipedia.org/wiki/Fish_Magic クレーは「子どもが描いたような絵」を描こうとした一方で絵画を論理化することに挑戦したっす そういう二面性がこの絵にはよくあらわれているっすよ 空の世界の天体と地上の世界の生き物や植物を1枚に描くのは伝統的な構図っすがその中に魚まで一緒に描き込む幻想的なアプローチを取っているっす 魚たちは画面の中で一見ランダムな形・大きさ・色で描かれているように見えて中央にある教会に視線を集中させまた一方で教会を中心にすると魚たちがとてもリズミカルに配置されているように感じるっす クレーの基盤となるドイツ表現主義は絵画と音楽の融合を表現のテーマとして掲げていて色彩とレイアウトでリズムやメロディーのようなものを伝えるてくるのがわかる気がするっすよ さてクレーが魚を主題に描いた作品にもうひとつ「黄金の魚」と呼ばれる絵画があるっす https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paul_Klee,_Der_Goldfisch.jpg 「」ネは史実を尊重するひとりの館長としてだんぜん金ビキニを推すっす >~エルって付く子多いっすね そうなの!私もそう思っていたのよ! ラファエル前派はイギリスの芸術運動だから英語読みしてるんだけどラファエロ以前の時代の芸術に立ち返ろうという運動なのよね! 美術用語はその用語が発明された場所の言語が採用されていることがあるわ! カラヴァッジョが生み出した明暗対比技法はキアロスクーロと呼ばれていてこれはイタリア語だからわかりやすいわね! うんうん言いたいこと分かるわ! 「ルネサンスってフランス語ャないか…」って思ってるのよね! でもこれには理由があるの! 最初に再生(リナシータ)って言葉を使ったのはヴァザーリなのよね 親の芸術論より読んだ芸術家列伝の中で使われてるんだけど後にフランスの歴史家ミシュレが『フランス史』って本でヴリナシータを訳してルネサンスとして紹介したの さらにスイスの歴史家ブルクハルトが『イタリア・ルネサンスの文化』という本を出してルネサンスという言葉が定着したのよ つまりいま目にしているルネサンスという言葉はイタリア語・フランス語・ドイツ語と広がってこのカタカナになっているのね なぁんちゃってヘラルトドウヘヘ >あと作家名にエドゥアール・マネっていたっすけどこの人マネっす? マネっす いわゆる写実主義っす 写実っていうのはただリアルに描くってことではなく「リアルを描く」という意味もあるっす つまり西洋絵画はマニエリスムの時代から「本当の世界を描く」ということではなくいくつかの決まり事ができあがっていたっすよ たとえば遠近法で2倍離れたものは大きさも半分になるっすがだからといって幾何学の通りに整合されなければならないというのが絵画の中でいつのまにか絶対のルールになっていたっす 当時のヨーロッパで浮世絵が驚きと共に迎えられたのはそれが必ずしも遠近法の通りになっていなかったからっす 画面の中で大きく描きたいものは大きく描くような表現は伝統的西洋美術では「子どもみたいだ」とされていたっすが しかし浮世絵はその子どもの描き方を洗練させ美しいレイアウトを実現させていたっす つまり西洋美術の伝統は絵画という大きな世界の一部に過ぎなかったことに気づいて遠近法に囚われない面的な表現や陰影を取り入れて「絵画の通りではない光景」すなわち写実と名乗ったっすよ これが印象派の発想の元になったことは明らかっす よろっす ・セイレーン スタバのロゴの由來はギリシャ神話に登場するセイレーンなんっすがこのモンスターは時代とともに姿を変えてるっすよ セイレーンは海辺で船乗りに歌を聴かせて誘惑して船を沈めてしまうという伝承でオデュッセイアにも登場するっす 古代のイメージは半人半鳥だったっす ところが羅針盤が発明されて移行は船が遠洋まで航海することができるようになったことで沿岸にいる鳥の魔物から遠洋にいる魚の魔物に姿を変えていったっす https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Sirens_by_Gustave_Moreau_(1885).jpg これはモローっす膝から下が鱗になった半魚として描かれているのがわかるっす これはラファエル前派のウォーターハウスが描いた絵っす https://commons.wikimedia.org/wiki/File:WATERHOUSE_-_Ulises_y_las_Sirenas_(National_Gallery_of_Victoria,_Melbourne,_1891._%C3%93leo_sobre_lienzo,_100.6_x_202_cm).jpg あらためて伝承を調べたら鳥だったということがわかってフィードバックされてるっすね さすが「ラファエル以前」を指向するだけあってよく調べてるっす ・雪女 ようやくストーリー読めたっす セキエンちゃ…セキエンさんの雪女を見た少年が寂しそうに見えると言っていたっすが どんな絵なのか見てみるっすよ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SekienYukionna.jpg このしなを作った姿勢と髪を顔にかける演出は歌舞伎の影響だと思うっすが表情は能面っぽくて見る人によって色々な読み取りができそうっすね ところで全体が3パターンの濃淡で表されているのがわかるっす白と黒と中間の灰色っすね 刷り方としてはシンプルに濃い墨と薄い墨だと思うっすが画面右側の奥行きのある空間描写に注目してほしいっす 濃度が一定でなくてもやがかかったようなにじみがあるっすよね これがセキエンさんの技法にもなっている拭きぼかしっすよ 版木を湿らせた手ぬぐいで拭いてから墨をつけることでにじみがランダムになって独特のぼやけがかかるっす 現代のマンガのトーンワークでも似たようなボカシをやってるっすよね それにしても雪が積もって重たげにしなった枝の表現が躍動的っす ・ゴッホ 当時の美術界は伝統的な表現を重視するアカデミズムと新しい潮流である印象派で激しく対立していました しかし両者は表現の手法では対立していたもののその表現の目的については「自然の光景を再現すること」という意味で共通していました 伝統派は写実的かつ理想的に 印象派は大胆かつ体感的に その中にあって「再現」を越えて自然のなかに感情を投影した風景を「表現」したのがゴッホさんです 印象派がいかに独自の色彩感覚を発揮したといってもそれは相対的な色彩感覚の中でのことでした その点ゴッホさんの色彩は現実を離れて作家が感じている感情をキャンバスの中に投影しています そしてストロークはただ筆跡を見せるだけでなく立体的な絵の具の構成によって陰影を生み出しています つまりゴッホさんは誰が見てもおなじ自然を再現するのではなく作家自身の世界観を表現するという新しいステージに絵画をのぼらせたと言えます ゴッホさんの生き方もまた美術に新たな視点をもたらして表現主義につながっていったんですよ >ネイト!ゴッホの凄い所もっと言ってやるッホ! ゴッホさんは弟のテオさんに生活を工面してもらっている中で高価な画材を買いあさっていました その上送金が遅れると催促とともにテオさんに対して非難するようなことを書いていました 若い頃には宗教家になろうとして修行をしたんですが貧しい人へ施しに行ったときに自分が着ていた服まで与えてしまいました 教会は「助けるってそういうことじゃないじゃん」と言って解雇しました ゴッホさんはモンマルトルにいたはずがとつぜんパリにいるテオさんのところに押しかけました ゴーギャンさんとの同居生活が破綻したのは有名な話ですがこの時もあたりに絵の具を撒き散らすような生活をしていてテオさんを精神的に追い詰めていたんですよ じゃあ一人暮らしさせたらどうかというと画材以外にはアブサンとタバコを切らさずに買っていて食事はパンとコーヒーだけで済ませていました 私が支えネイト! ・オペラ座のオーケストラ(シーブル) ドガは印象派の主要メンバーの一人として語られているっすが でもモネやピサロのような典型的な印象派の作品と共通する要素はあまりなくてドガの技法はむしろ古典的っす それも当然でドガの直接の師匠はアングルの弟子で直系の新古典派っす 屋外の薄暗い空間を好んで描いたっすがこれはドガが従軍したときに目を患って明るい場所が苦手だったからと言われているっすよ ドガはブルジョワ家庭の生まれでマネと最も親しくした画家のひとりっす このことから「技法は新古典主義・画題は写実主義」という他にあまりない作風になっているっすよ 中でもドガが好んだのがオペラやバレエなどの観劇っす ドガはオペラ座(バレエ楽団)の年間会員になっていて会員は舞台裏や練習室にも入ることができたっす それで普通の人は見ることができない練習風景なんかを描いていたっす 『オペラ座のオーケストラ』ではバレリーナが上方で顔を描かれず演奏家たちに注目しているっす この絵はマネ的な風俗画でもあると同時にレンブラントが得意とした集団肖像画としても見られるっす 描かれている人たちは実際の演奏家で名前が分かっているっすよ フォルジェールが自由すぎるのは近代と現代で人間の行動規範が全く変わってることが反映されているからっす フランス革命により生まれた近代的思想がナポレオン戦争を経てヨーロッパ中に広がったことで社会は大きく変化したっす 職業選択の自由や居住の自由が認められてしまったらもはや人間が社会や国家の下に生きているという考え方は捨てなければならなかったっす 写実主義者としてマネに先行したクールベっすがその作品の主題はまだ共同体をベースとしていたっすよ 彼の代表作が田舎の村の葬式の絵であったり「新しい共同体」を志向する『画家のアトリエ』であることからも読み取れるっすね しかしマネはクールベほどのアナーキストにはなれなかったっす パリ・コミューンの失敗に象徴される共同体思想の敗北を目にしていたこともあって70年代以降のマネの画題はますます個人主義的になっていったっす 産業革命やフランス革命による社会の変化のなかで人々のあり方そのものが変わっていく時代をキャンバスのなかに反映していったことこそマネを美術史上で特筆させる理由っすよ >マネちゃんはいつから偉くなったっす? マネがレジオン・ドヌール勲章を受勲したのは1881年 この翌年に描いたのがフォリー・ベルジェールのバーでさらにその次の1883年没っす 公的に高い評価を得たのは病気になってからの晩年っす レジオン・ドヌール勲章はフランスの国家勲章で五段階あってマネが受けたのは初段階のシュヴァリエっす アングルはその上のオフィシエの上のコマンドゥールの上のグラン・オフィシエを受けてるっす 勲章を受けるかどうかは政治的な駆け引きの結果でもあるから受けることが芸術界で高く評価されていることにはならないっすがそれにしてもインパクトの割にマネが受けた公的評価は低いっす まあ国を挙げて万博やってるときに参加を断って近くで個展開いたりしたせいなんっすが… ちなみにモネやルノワールは二段階めのオフィシエっす 大衆文化から生まれた印象派も1900年頃には国家の勲章を受けたわけでこの辺で社会体制の変化を感じることもできるっすね >その時にはもうだいぶ印象派が強くなってそうっすねぇ… フランス革命以来メチャクチャだった政治体制が1870年以降ようやく第三共和政で安定してきたっすよ 共和制ってぐらいだからブルジョワが権威を増して美術界でも古典派のアプローチより印象派をはじめとした「今っぽい」表現のほうが受けるようになっていったっす マネが参加を断った1867年の万博と違って1900年万博のころには印象派が海外に(特にアメリカに)受けることがすっかり知られていてモネやルノワールの表現は主流となっていたっす 一方で1人でも売っていけるようになった画家たちは印象派展という集まりに参加する必要は薄くなっていったっす サロンが印象派の技法を評価するようになってきたんだから普通にサロンに出して行けばいいじゃないかという融和路線を取ったのがモネやルノワールっす(セザンヌもっすが入選しなかったっす) 逆にドガやモリゾは印象派の独立的な活動を優先したっす 自分で絵を売らなくても生きていける余裕があったからサロンに出さなくても平気だったんだと思うっすが… しかし若手画家たちが参加し続けた印象派展は次の世代を送り出すアンデパンダン展を生んだっすよ ・伝統(オルタネイティブアングル) アングルを頂点とする新古典というのは伝統に則った形式を守ることが重要と考える形式っす ではなぜ伝統を重視することが重要になるのかを考えてみるっすよ 簡単に言うと「過去に上手くいったのと同じようにやっておけばうまくいくはず」という認知に従っているっす 整備された道以外を歩くと危険なのと同じように 決まった手順に従わないことが失敗の元になるように うまくいくとわかっている方法があるのにわざわざ違う方式をとることは様々なトラブルの原因になるっす それがたとえ一見して現代の社会に適合していないように見えたとしてもいざ違うことをやってみるとうまくいかないというのはよくあることっす だから急激な変化を求めるのではなく変えるのは一カ所ずつのようなゆっくりとした変化を求めることを政治学的には保守・コンサバティブと言うっすよ それは言い換えれば今の意思決定者の意見だけでなく過去の人々の知恵を一緒に動員すると言うこと すなわち伝統というのは今の意思決定に死者の知恵を借りることでもあるっす それがいつのまにか現実に合わなくなりどこを変えるべきなのかもわからない呪いになってしまうこともあるんっすねぇ >第二次大戦下でナチスが略奪した美術品 これが悪名高い退廃芸術っす 写真の登場により存在意義を揺さぶられた絵画は新しい表現が生まれていったっす ドイツでもその流れを受けて新しい表現を追及するグループが現れていったっす 都市ごとに独立的な傾向が強いドイツでは芸術の主流派は芸術家組合を結成していたっすがそこから離れて製作を行うことからこうした派閥はミュンヘン分離派やベルリン分離派と名乗ったっす 新しい潮流は大きく分けて三派あったっす 自然描写を通じて内観を描く表現主義 その逆に物質のみを描き出す即物主義 そして高度な美術理論で自然から離れた抽象っす これらの優れた表現においてドイツ芸術は非常に先進的だったっす ところがあまりに急速に新しい表現を取り入れたことと旧来の組合から分離した諸派には外国人やユダヤ人が多くいたことが「伝統的ドイツ」の反感を買ったっす ナチスが勢力を増すにつれてドイツ社会を破壊する共産主義者が近代芸術を作らせているという陰謀論にまで発展し近代芸術を購入する美術館職員を解雇する強権を振るうようになっていったっす さてでは美術館が購入した絵画や彫刻はどうなったか? これらの作品を展示したのが「退廃芸術展」っす この展覧会では18歳未満の入場が禁止されてどこがダメなのかを糾弾する文章とともに展示されたっす 額縁から外した剥き出しの絵画の横にその絵画の購入金額が書かれていかにも無駄遣いだと強調したっすよ この退廃芸術展開催のために各州の美術館や個人コレクターからも作品を押収していったっす 一方でドイツロマン主義までの古典の流れを汲む絵画を正当なドイツ芸術として大々的に展示することで国民をアジテートしていたっす ナチスが設立した帝国文化院は芸術家のみならず批評家に対しても政府が認めた場合のみ執筆を許すという施策を行ったっす 独立都市ごとにあった気風を帝国一色に染めることがドイツ伝統の芸術なんっすかねー! ・雪中の狩人(スニューウ) 「雪中の狩人」の作者はピーテル・ブリューゲル(父)と表記されることが多いっす 同じ名前の息子も画家をやっていてそっちは(子)になるっす 花のブリューゲルと呼ばれたヤン・ブリューゲルは次男っす 要するにブリューゲル家は絵描き職人の家なんっすね 後にオランダとベルギーに分かれるネーデルランドの画家っす ブリューゲルは人物と風景を見事な構図で描くことで北方の精神を描いているっすよ この雪中の狩人は四季の移り変わりを描いた連作の1枚っす この雪景色やスケートから雄大な自然への畏敬と人々の生活への愛着が同時に感じられるっすねー! 冬の雪の中での狩りは命がけっすが狩人たちが捕まえられたのは狐一匹だけみたいっす 彼らがどんなに険しいところで狩りをしたのかは画面奥にある山々から察せられるっす手前と奥が繋がる見事な構図っすよ ちなみにネーデルランドにこんな高い山はないっす じゃあなんで山を描いたんだい? あったらいいなと思って ふーん…君は絵がうまいっす! ルノワール 印象派の母体になったのはモネやルノワールたちのグループがマネの行きつけのサロンに集まったことなんっすが このグループはもともと市井の画塾の生徒だったっす アカデミーは会員の弟子がサロンに出品して認められて会員に…というルートが基本だったっすよ この画塾をやっていたのはシャルル・グレールというアカデミズム画家だったっす この人はサロン2位になったこともある実力派っすが自分なりのスタイルを求めてサロンからは距離を置いたっす ルノワールは仕立て屋の息子で皿の絵付け職人に弟子入りしたっすが産業革命で食器にプリントをする技術が発明され失業したっす その後画家になるためにパリに来てグレール塾でモネたちと出会ったっす 印象派のなかでルノワールの特徴は古典にも興味があることっす 画塾のあと官制学校にも入ってアカデミズム流の絵画も学んだっす 印象派展から離脱後にはイタリアに旅行してラファエロ流の古典絵画に目覚めるのも下からの素質だったのかもしれないっすね ・ 肖像画 >>物画を描く時は斜め顔の方が描きやすいとかあるっす? >シンプルに正面顔を上手く描くのが難しいっす 絵が下手だからではなく正面の顔を美しく描くのはダ・ヴィンチレベルでも難しくてモナ・リザも30度左を向いてるっす この30度横を向いて視線は画家に向けている情報が最も美しく描けるポーズとして確立したっすよ この肖像画のスタイルを作ったのはアントネロ・ダ・メッシーナという人で初期ルネサンスの画家っす https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Antonello_da_Messina_-_Portrait_of_a_Man_(Il_Condottiere)_cleaned_version.jpg これは本人ではなく傭兵隊長の絵とされてるっす アントネロは北方の絵たとえばヤン・ファン・エイクから油彩の技術や構図を取り入れて肖像画を洗練させたっす この技法が広まって以降正面からの肖像はほとんど描かれなくなったっす あるモデルを描く場合を除いて 正面から描かれる唯一のモデルとは世界の救世主(サルバトール・ムンディ)っす https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Leonardo_da_Vinci,_Salvator_Mundi,_c.1500,_oil_on_walnut,_45.4_%C3%97_65.6_cm.jpg そういうわけで西洋画では技術的にも伝統的にも正面から顔を描くことはかなり特別な意味があるっす ・レンブラントとチューリップ さすがに花にレンブラントは決まりでいいんじゃないっす? ちなみにレンブラントと関わりのある花といえばチューリップっす ご存じの通り大航海時代のオランダではチューリップバブルと呼ばれるチューリップの高騰が起こっていたっす レンブラントが書いた花といえば妻を花の神フローラに見立てた絵っすね https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Harmensz_van_Rijn_Rembrandt_-_%D0%A4%D0%BB%D0%BE%D1%80%D0%B0_-_Google_Art_Project.jpg 顔の右側のいちばん目立つところにチューリップが下向きに飾られているっす このチューリップには独特の縞模様があるのがわかるっすね? このチューリップの縞模様のことをレンブラントチューリップと呼ぶっす この模様が出ていると当時のオランダで最も高価な根がついたらしいっす ちなみに模様の正体はウイルス性の病気だったっすが今では品種改良によって健康なまま縞模様を出すことができるようになってるっす ちなみにテュルプの名前の元になったテュルプ博士の名前もチューリップに由来してるっっす もともとの家名ではなくチューリップが大好きだから名前もチューリップにしたらしいっす マジ? ・花咲く桃の木(ひな祭りゴッホ) ゴッホちゃんは「花咲く桃の木」という絵が元ネタっす https://gallerycollections.courtauld.ac.uk/object-p-1932-sc-176 1888年にアルルに移り住んですぐのゴッホは風景を描くことにのめりこんだっす 特に興味を引いたのが果樹園でスーラの発明した点描を用いて色が配置され光や空気の動きが感じられるっす アルルの光景を「日本のようだ」と言っていたとおり画面の奥側は遠近感にとらわれない浮世絵風の描写が混ざっているように感じられるっす このころアルルにはデンマーク人の画家ピーターセン・アメリカ人のマクナイト・ベルギー人のボックといった画家たちが滞在していてゴッホは彼らと交流を持ちながら風景画に取り組んでいたっすよ この年は『アルルの跳ね橋』『ひまわり』『夜のカフェテラス』『ローヌ川の星月夜』と次々に代表的な作品を描いたっす ゴッホの生涯で最もカラフルで明るい絵を描いていた時期っすね(絵の具もたくさん買ってもらったし) その後ピーターセンらは帰ってしまったっす なぜなら彼らは旅行に来てるんであって本気で住もうとは思ってないからっす こうして寂しさを味わったゴッホは同居者を熱望するようになったっす To Be Continued→ ・玉藻前(ひな祭りセキエン) セキエンさんの衣装は玉藻前っす https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SekienTamamo-no-mae.jpg 日本美術にも妖怪にも詳しくないから詳細な解説ができなくてすまんっす 「」ネの見立てでは尻尾からビームを放つ十二単の美女が描かれているっす 玉藻前の伝説は『神明鏡』にも書かれているっす 鳥羽上皇の寵愛を受けた玉藻前という美女がいたっすよ 上皇が病に伏せるようになり手の施しようがないところ陰陽師が玉藻前の仕業と見抜き真言で退散させたといわれるっす 那須野へと逃れた玉藻の前は三浦義明・千葉常胤・上総広常らの軍と戦い破れて巨大な石に変化したといわれるっす これが有名な殺生石っすがもちろんこの後半部分は徐々に伝承が広まるうちに付け加えられたと考えられているっす さらに玉藻前バースの前日談が作られ正体は殷王朝を滅ぼした妲己であったということになったっす ケモ美女は3000年前から人気ジャンルだったんっすねえ ・愚者の石の切除 >額に穴が開いてるでやんす これは頭から石を取り出すところを描いた『愚者の石の切除』という絵っす 作者は快楽の園(ガルテルステ)のヒエロニムス・ボスっすよ! ネーデルラントでは頭の働きがにぶい人に対して「頭に石が入っている」という言い回しがあったらしいっす ボスはこの諺を絵に描いたっすよ! この図像がどういう意味を持つのかは快楽の園と同様に今では完全に突き止めることは困難っす ただボスが何を表現しているかのヒントはあるっす 石を取り出す手術をしているはずが患者の頭から出てきているのはチューリップっす これはチューリップが平和さ=愚かさの象徴であるという説と花が色欲を象徴していてそれを取り除くことで敬虔に戻すというキリスト教的な解釈があるっす 手術をしている医者は大きな漏斗を被っているっすし右の修道女も本を被っているっす どちらも頭に乗せる道具ではないので使い方を間違えているすなわち彼らも愚かかあるいは欺瞞を働いていることの象徴と考えられるっす 周囲に描いてあるカリグラフィーは「すぐにこの石を取り除いてください」「私の名前はルバート・ダス」と書かれているっす ダスはアナグマのことでルバートはオランダの昔話によくある名前なので日本人の感覚だと「タヌキ太郎」みたいな感じっすかね これらの複雑な解釈を抜きにしてもちょっとグロテスクで滑稽なものを描く感覚は16世紀なのに近代的っすよね ボスみたいなずっと昔の古い作品だと絵そのものが面白いのに加えて その絵がどういう風に鑑賞されてきたかという鑑賞史も面白いっす この絵も今の基準で見ればおかしなシーンを描いたちょっと漫画っぽい絵に見えるっすが もともとこれを発注したのは聖職者と考えられていて教会由來のありがたい絵として保管されてきたっすよ だから「性欲の象徴である花を取り除くことで敬虔な信者に戻すところを描いているのだ」みたいな大真面目な説がかなり伝わっているっす もちろん実際のところボスがどんな意味を込めたのか・どんな発注を受けたのかはわからないっすが これがありがたい教えを描いているのだという解釈がかなり強かったことを俯瞰して眺められるのは後世の人間の特権っす 当時の社会背景まで考えて分析できてそれがWikipediaで読める時代に感謝っす ・ダダイスム >それは虚無主義だねぇ... ニヒルといえばダダイスムっすね 芸術は何かを表現するものだという前提自体を疑うことがその根底っす 翌話題になるのがデュシャンの『泉』で便器にサインしたものをそのまま展示したっす 意味や価値は美しいから宿るわけではなく社会や文化によって生まれるものだということを指し示したわけっす しかしここには単なる虚無の証明だけがあるわけではないっすよ 当たり前の前提としてニーチェが指摘した通りニヒリズムは単なる逆張りに過ぎずたとえ意味がないとしても人間は世界に意味を求めてしまうのだから人間の手で意味や価値を創出するものだと言えるっす ダダイスムの目的とは意味や価値を破壊した結果として浮かび上がる現実世界を観賞者に自覚させることだったんっすね ちなみにダダの前提にはそれまでの理性主義の結果として巨大な公害や戦争を引き起こしてしまったことがあるっす ある価値感が支配的になるとその裏の面を指さすこともまた芸術の役割なのかもしれないっすね ・ヴィーナスの誕生(ヴィーナス) ボッティチェリのヴィーナスの誕生は画題としても画材としても当時にしては革新的な挑戦だったっすよ まず画題っすが当時の絵画は教会に飾るために描かれるものだったっす 当然宗教的な画題が中心になっていたっす そのなかで裸体は恥ずべきものとして扱われていたっすよ ご存知の通り創世記においてアダムとイブは楽園を追放されたあと裸を恥じて葉っぱで体を隠したという記述から発展して当時の倫理観はできていたっす(中世で裸がどう扱われていたか知ってるっすね) ところがギリシャ・ローマの文化復興によって古代世界の肉体に対する美的感覚が知識層のあいだでは盛り上がっていたっす そして画材っすが当時の南ヨーロッパでは木の板に絵を描くのが多数派だったところにボッティチェリは布つまりキャンバスで描いたっす 利点は大きく2つで大きな絵が描けることと軽いことっす つまり特定の場所においておくだけでなく運べる絵としてヴィーナスの誕生は描かれているっすよ 教会の中の門外不出のありがたい絵ではなく鑑賞者がヴィーナスの裸体を美的興味において鑑賞するというスタイルがはっきりと打ち出されたっす いわば絵画的娯楽のパイオニアといえるっすよ ・ルネサンス >彫刻はみんな裸なのに絵画はだめだったっすか その裸の彫刻が出土したのがまさにルネッサンスっす ギリシャローマが滅んだ後ヨーロッパは1000年近くこれらの自然信仰があったことを忘れてキリスト教の世界として栄えたっす しかし技術の発展とくに航海技術の発展とともに世界が広がるとキリスト教だけが世界の文明の全てではないことに気づいていったっす 特に重要なのが15世紀頃まで今のスペイン・ポルトガルを支配していたのがイスラム教徒だったことっす キリスト教国家たちがこれらの領土を奪い返したときそこにはイスラムが残していた古代の文献資料があったっす こうした文化的発見によって空間的にも時間的にも「別の世界」があることに気づいたヨーロッパ諸国はこれまでの倫理を再構築することを迫られたっす ミロのヴィーナスやラオコーンもずっと飾られていたわけではなくルネサンスの時代に発掘されたっす それでルネサンスや大航海時代以降のことを西洋の歴史家は今までとまったく違う時代だとして扱うようになり「古代」「中世」「現代」という区分が生まれたっすよ その時現代と呼ばれた時代は今では近世と呼ばれているっす ・雲海の上の旅人(ヴェッター) ヴェッターはライフとおなじフリードリヒの作っす ライフと同様に画面全体が三分割されている上に見事な三角構図が下三分の一を構成していてものすごく安定感のある構図でありながら広大な世界を感じさせるっす 最近だとゼルダの伝説BotWのパッケージの元ネタとして有名っす フリードリヒの絵画は宗教的モチーフと古代の自然崇拝を融合させそこに近代哲学を反映した思想的に高度な画題が特徴っす とりわけ『雲海の上の旅人』は広大な光景を征服したような視点でありつつもその中では小さな存在でもあるという近代的な個人の矛盾を同時に表現しているっす ドイツやスイスでは18世紀以降の急速な工業化で都市への過密が起きたっす その反動として自然風景の中を探索するワンダーフォーゲルが学生たちの文化として生まれたっすが そのワンダーフォーゲルのイメージとして山の上の人の背中はよく使われ すなわち近代化に対抗するドイツの伝統的な精神の理想としてここに描かれているwandererが選ばれていたのは恐らく間違いないっす すっごい個人的な解釈なんっすが ロマン主義が急速な国際化に対する抵抗運動で その急速な国際化がナポレオン戦争に端を発していることを踏まえると 『雲海の上の旅人』はアンプルーラこと『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』に対する批判や超克を含んだ絵として見ることができると思うっす ボナパルトの指が頂点になる三角構図に対してフリードリヒは三角が絵の全体を締めて折らず余白が多かったり上向きの構図に対して人物を見下ろす構図にしてたりすごく対照的に感じてるっす ボナパルトの絵は1805年『雲海の上の旅人』は1818年の作っす