「倉庫に行ってきますね」  ノネッタの言葉を聞いて、氷獄魔王マヒアドは、なんとも複雑な表情を浮かべた。 「二人でか」 「はい。お天気もいいので、お散歩がてら」  ノネッタがこちらを振り向いて、少し笑いかけてきた。笑顔を作ろうとしたが、うまく行かない。仕方なく会釈して見せる。 「何をしに行く?」 「毛布の薄いのを出しに行こうかと。いただきもののお茶を仕舞ってあったはずなので、そちらも探してきます」 「荷物が多くはないか」 「大丈夫ですよ。遠くないですから」 「いやその……」  マヒアドは口をつぐんだ。口の端が微かに震えている。 「……」  ノネッタもそれに合わせて沈黙した。二人が声もなく見つめ合う。口を挟むのも悪い気がして、黙って様子を見る。  そこそこ長い沈黙が降りた。 「ほなわし、一緒に行きますわ。手ぇ空いてますさかい」 「あっ」  古木の精が、扉の陰からのそりと姿を現す。マヒアドが小さく声を上げた。 「なんぞ問題ありますの?」 「……うむ。気をつけて行くがよい」  マヒアドは言いたいことがありそうな顔をしていたが、すぐに威厳に満ちた顔になり、頷いた。 「ややこしいお方ですわい」  倉庫は城の外に出て、半周ぐるりと回った位置にある。大した距離ではない、しかし外気は容赦なく冷たい。ぶつぶつと文句を垂れる木の精は裸足だったが、寒がる様子はなかった。その足は雪原に深く、いびつな形の足跡を残す。 「マヒアド様はまだ、この子との付き合い方を決めかねてるみたいなんですよね」 「付き合い方ちゅうても、今更追い出すよなざんない真似があの方にできますかいな。はよ腹くくったらよろしいねん。おまさんかて困るわな」  樹の根によく似た節くれだった手が、ぽんと肩を叩く。ノネッタがちょっと困った顔で笑った。 「一緒に行きたいの一言も言えんで、何の氷獄魔王ですのん。ノネッタ様もノネッタ様や、汲んで差し上げたらよろしいですやん」 「待ってたら言い出してくださるかなと思ったので……」 「やめなされ、日暮れまでかかりまっせ」  凍った雪面を踏み抜いてしまうと、足を抜き出すのに少し力が要る。そんな風にして歩いてきたので、振り返って見ると、かんじきを履いた足跡は、少し乱れていた。 「おお、ノネッタ様。我らが魔王は息災であらせられまするか」  大きな狼が跳ねるようにやってきた。白い尾がふさふさと揺れる。 「どちらにお出かけか」 「ちょっと倉庫に行くだけです」  狼は話しながら、自然な足取りで一行に加わった。獣の大きな足裏は、雪にくっきりと趾の跡を刻んだ。 「そなたも元気そうで何より」  狼が頭を下げた。濡れた黒い鼻先が、すぐ目の前に降りてくる。咄嗟に返答できず、一拍置いて、はい、と答えた。狼は片耳を動かして、ピンク色の舌をちらりと覗かせた。 「おや、皆さんお揃いで……」  魔族たちが次々に現れては、ぞろぞろとついてくる。魔王城から倉庫まで、大小様々な足が、雪にとりどりの足跡をつける。 「あの、毛布を取りに行くだけなんですが……」  ノネッタが気まずそうに口を開いた。彼女の足は雪の上に、子うさぎが跳ねたほども跡を残さない。 「我ら揃って暇なのでありまする」 「サームイテツクへの侵攻も取りやめになったからな」 「おい、よせよ」  倉庫の中で、魔族たちに囲まれながら、うまく行かないな、とぼんやりと思う。ノネッタの代わりに、荷物を持ちたかったのだ。そもそもの毛布も、自分以外の役には立たないのだけれど。今の自分にできる仕事は、氷獄魔王軍にはない。  ノネッタにそっと手を引かれた。魔族たちの隙間を抜けて、棚の奥へと導かれる。少し埃っぽい。 「たしかこのあたりだったと思うんですが……」  ノネッタが棚を示した。彼女について歩きながら辺りを見回すが、目的のものの姿がわからない。棚の一番上は、底の板しか見えない。あそこに手が届くまでには、何年かかるだろう。 「ありました!」  高らかな歓声と拍手が沸き起こる。魔物たちはまことに暇なようだった。  扉の隙間をすり抜けて、冷たい風が吹き込んできた。ノネッタが顔を上げる。魔物たちもぴたりと話止めた。 「急いで戻りましょう」  北風が吹く。晴れた空から、きらきらと輝く雪が舞い降りる。空から輝く影が落ちた。マヒアド配下の魔物たちが、一斉に跪く。風に乗って橇を牽いてきた白いトナカイは、地面に蹄を触れた瞬間、音もなく崩れて雪片と化した。 「出迎えご苦労」  氷の橇から、長身の女性が降り立つ。彼女が上げた片手は、氷でできていた。長い前髪の下で、赤い口が三日月のような笑みを浮かべる。 「サームイテツクのユキサキだ」  名乗りを聞く前からわかっていた。この人は女王だ。冬の化身のような超然とした雰囲気が、彼女を包んでいた。 「何をしに来た、ユキサキ」  マヒアドだけは立ったまま、視線に氷の魔王の静かな敵意を込め、ユキサキを睨みつける。ユキサキはその視線を平然として受けた。 「うちの医者が真面目に働いているか、仕事ぶりを見に来たのさ」 「素晴らしい治療だった。その節はありがとうございました。いずれ改めてお礼の品を贈ります」  ユキサキが示す氷の橇の中に、医者が大柄な体を縮こまらせて座っている。マヒアドは尖ったトーンのまま、かしこまった口調で礼を言った。 「おまえが坊やの拾った子か」  ユキサキが歩み寄ってくる。彼女の靴の下では、雪は石の床であるが如くに平坦なままだ。ユキサキが上体を屈める。ふわりと冷気が肌に触れた。 「うちの国に来るか」 「な」  マヒアドが口を開ける。 「フフ、氷獄魔王とは坊やには過ぎた名乗りだが、ここは確かに氷獄だ。人間の暮らす環境ではない」  ユキサキは片手を上げて、ぐるりと周囲を示す。指の先にいた魔族たちが、順々に萎縮して身を縮めた。 「サームイテツクも氷の国だ。だが人はいる。同じ年頃の子供もだ。魔族の間で育つより、人間と暮らした方がいいかもしれないと思わないか」 「……確かに、そうだ。我々に人間のことはわからない。ありがたい申し出だ、感謝する」  マヒアドは噛みしめるような口調で肯定した。 「サームイテツクは凍える国だが、人々の心は穏やかだ。あの国に行くのなら、我々も安心だ。どうする」  マヒアドがこちらを見る。その目は少し潤んでいる。ユキサキが声なく笑んだ。魔物たちが息をつめて、返答を待っている。 「その……」  つばを飲み込む。サームイテツクに行くべきだとはわかっているのだ、だが…… 「ここにいると、ご迷惑ですか」 「ウッ」  マヒアドは鈍いうめき声を上げた。彼に代わって、ノネッタが答える。 「迷惑なんてことはありません。でも、とてもいい話です。私たちにはしてあげられないことが、たくさんあります」 「一度別れたら二度と会えない気がして」 「ヴ」  マヒアドが異音を発した。ノネッタがそっと答えた。 「いつでも会いに来られます」 「そうだ」  マヒアドが籠もった声で言った。 「遠慮は要らん。望むようにするがいい」 「あなたが幸せになれる道を選んでください」 「ここに居させてほしいです」  マヒアドが不自然な方向に顔を背けた。 「そうか……」 「すぐに働けるようになりますから」 「いや……そんなことは重要ではない。気にするな」 「それは本当にそうです」  マヒアドのかすれた声に、ノネッタが肯定を重ねた。 「ンッフフフフ」  黙って聞いていたユキサキが、唐突に笑いを溢した。 「坊やは坊やだと思っていたが……いや坊やのままではあるがな、ハハハ!」  大笑いしても、ユキサキの威厳はいささかも崩れない。彼女の威厳は冷気と同じく、生まれついて身についているもののようだった。 「さて坊や、お前さんの国は客に茶の一つも出さず、吹きっさらしの中で立たせておくのか?」  ユキサキはつかつかとマヒアドに歩み寄り、力強く肩をひっぱたいた。 「痛ッ」 「人の親としての心の持ちようについて、教えてやろうではないか。ありがたく拝聴するがいい」