「思った以上に綺麗だね」  クロウの部屋に着くなり良子の口からそんな言葉が聞こえた。 「ん?まあな」  正しくはないけどな、と心で付け加えておく。  綺麗なのではない、物がないのだ。私物が生活に必要な最低限とデジタルワールドに必要な最低限だけだ。散らかりようがない。  クロウに物欲がないわけではない。ウェブを見てこれいいなと思うものもあれば実益を兼ねた趣味である調理器具もいいものを一式そろえてみたいと思う。実際バイト代が入っているのだから買おうと思えばすぐに手だって出せる。  だがデジタルワールドの事を考えればあまり荷物を多くしたくはない。  今に良子を通し座布団を置く、クロウ自身も腰を下ろして良子を見た。 「それじゃそろそろ話してくれよ…悩みをさ」 「…あんまりちゃんと言葉にできなかったらごめんね」 「おう…まあそれは聞いてから考えら」  じゃあ、と、良子口をぽつぽつと開き始める。 「ねえ、あたしってさー…人かな、デジモンかな?」 「は…?」  妙なことを言い出した、何かの哲学書でも読んだのだろうか、概念的な何かの話なのだろうか。だが、少なくとも自分が知るのであれば、 「あー……人、だろ?」 「クロウから見ればまだそうか」 「?…………話が見えねぇ………」 「ああ、ゴメン…………つまりさ、今よく組むメンバーって大体完全体とか究極体とかすごい力使うじゃん」 「まあな」 「んであたしも一応究極体まで進化はさせれるわけで…ねえゼクスグレイモンの進化ってどういうものかわかる?」 「ああ……まあ一応…………いや、もしかして…」  嫌な予感がよぎる。ゼクスグレイモンの進化はある特殊性を秘めている、進化自体は普通だがデジコア、良子のパートナーアグモンX抗体の中核に良子の血液…遺伝子情報と結合していた。 「ん…まあスピリットエボリューションみたいに完全にデジモンと合体する、みたいなのとは違うけどさ…ゼクスグレイモンになるとあたしの意思が流れ込んでるんだよね…あっちってさ、物理的に独立っていうよりは肉体だってデジタルデータみたいなものでしょ…時々あっちからすごい意思のデータが流れ込んできてる気がするんだ…もしかしたら錯覚かもしれないけど…」 「いや…ありえねーってことは…ねーな」  デジモンの進化に人の意思が関与することは多い、例えばデジソウル、例えば紋章、ほかにも上げればきりがない。しかしそれらは行ってしまえば精神の力が明確に影響を与えていると言ってよい、それが一方通行であるとは言い切れない。進化によってはテイマーに影響を及ぼすという事例も存在している。それが本来の物質的な肉体に変質をもたらさないと言い切れる要素はない。  良子はどこか遠くを見つめたまま、右手を掲げた。 「ふと思っちゃうんだ、もし起きた時にこの手がアグモンみたいになってたらって…ううん、身体にうろこが生えてたら?牙が生えてたら?もしも自分が何か別のものになったときにさ…あたしは自分をあたしだって認識できるのかな?もちろん心が大事っていう誰かもいるかもしれないけど…本当にそうなのかな…あたしを認識してる要素が何もなくなったときにそれがあたしである保証ってあるの?」  テセウスの船を思い出す。バイト先の主人が何かのはずみでうんちくとして語ってくれた。1隻の船がある、それが負傷やら何やらでパーツを入れ替え続けた場合見た目や名前が同じであろうと、元の船であるのかという考え方だ。  この場合ならば良子の心という船の肉体というパーツがすべて入れ替わったとして、それが良子と言ってよいのか、と、問われている。  難しく、答えの出ない話だ。人によりあまりに解釈ができすぎる。良子の言う通り心が良子のものだとして、肉体の変質に合わせて精神が変質してないとなぜ言える。  歯がゆさを感じる。こういう時に口にするべき答えを持ちえない。深く考えたことがないから己の答えと言えるものをも持ち得てないない。ならばどうせればいい、この答えをおためごかしたものにしたくはなかった。良子が真剣に悩んでいることを、一般論であるとか何らかの回答例のような自分の精神が思考が導き出したものではない回答は不義理だと思えた。 「なありょう――」 「これが1つ」 「え…?」 「悩みが1つだけと言った覚えはないよ?」 「まあそうだけど…」 「んじゃ2つ目、明日さ、あたしらがここにいるって言いきれる?」  とても真剣な目だ、人によってはにらんでいるとすらとられそうな。 「デジタルワールドでさ…イレイザーと戦ってるわけじゃない」 「ああ」 「まあその前はこっちに戻るためとかいろいろ個人での戦いもあるけどさ…それも含めて結構危険な目に合ってきた…クロウ」 「お、おう」 「ちょっと脱いでみ?上だけでいいよ」 「きゅ、急にナニ!?」 「いいから!」  押し切られるままに、上半身の服をすべて脱ぎ払う。外気にあたり少しだけ身震い、暑いというのに。 「………凄いね、傷」  じ、と、良子の視線がクロウの身体を貫く。自分では気にしたこともなかった、言葉とともに自らの身体を眺める。大小かかわらない傷がびっしりとある。まだデジタルワールドを知らない時代の古傷が、デジタルワールドでの戦傷が。 「デジモンの戦いはどうしたってデジモン同士だけど…それでもこんなに傷ついちゃう」 「…………ああ」 「もしさ…防ぎきれないくらいのヤバイ攻撃とか流れ弾がこっちに来たら…さ…死んじゃうんだろうねあたしたちって」  良子の笑みがこぼれた、普段の快活なものとは違う、儚く消え入りそうな顔。幾重もの冒険をともに繰り広げてなお、まだ見たことのない柔らかな笑み。 「そうなったらきっと怖いんだろうなぁ、泣いちゃったりしてさ…戦いうこと、後悔したことなんてないけど……それでもやっぱね」 「そりゃ……そうさ……俺だって後悔してねぇけどいざとなりゃビビるし怖くなることだってあるさ」 「おんなじか」 「ああ、同じさ」  なら、と、 「わかると思うんだ、あたしの考えてること……やり残したって思えそうなことがあるままってのはさ……いやじゃん」  その言葉の意味はよく分かった。  後悔がないと言うのは本当だろう、クロウ自身もそうだ。大変なこともきついこともあった涙を流すことも歯を食いしばることも何度だってあった、そのたびに立ち上がる、立ち向かうその時手に入れたものを考えれば後悔などあるはずがない。  だがそれでもと思うことがある、まだやり残したことがあるのではないかと。いわゆる青春だ、自分たちの年齢ならば当然のように享受しているようなもの。デジタルワールドでは色々な女性と出会った、いい女と呼べるような女性もたくさんいた、目の前の良子も含めて、だが結局愛や恋にうつつを抜かせないでいる。  その上で良子が気づかせてきた、あるいは自分が理解しないように努めていた死と言う事実が自分に起きたとき、後悔はなくとも心残りがないなどとはきっと言えない。 「なるほどな……だからあんな誘い方したわけか」 「そゆこと……」  良子が自分の手を握り、開く。 「あたしがあたしって言えるまま、その間にやれることやりたいってそん時に1番最初に浮かんだのがクロウなんだよね……やっぱ前衛よく組むのあんただし」 「……そーかよ」  クロウは息を吐く。 「じゃーよ」 〇 「良子、やっぱ無しだ」  やっぱりこうなるよな、と良子はどこか心の内で腑に落ちた。クロウならばきっとそう言うのだろうと思っていた。 「まあやっぱこうなるか」 「ああ」  あるいはきっとそう言ってもらえることをどこか期待していた、自分の投槍になっている心をいさめてくれるのではないかと言う、他者への依存か。 「良子」 「ん」 「ぶっちゃけんなら……俺ぁ、正直グラついてるぜ、まあ俺も男だし?最低なこと言うぜ、いや良子の体クソエロいし」 「うわ……感動的な言葉が来ると思ったら本気でげっすい」 「いーだろ、もともとそう言う話だったんだからよ……まあ、それはそれとして、だ」 「何よ」 「おめーが最初に俺のこと、思い浮かべたってのは素直に嬉しかったぜ……だからよ、なおのことまあなんだ、割と真剣に悩んでるのはわかってるけど……後ろ向きじゃん?今のさ」 「まーねぇ」 「俺ぁ……良子とヤるなら……前向きのがいい、だから」  抱き寄せられる、クロウの体に包まれる。その体は大きく暖かい、固く、強さがある。運動をしても筋肉よりやや脂肪の多い自分の体に比べて引き締まっている、安堵感がある、別に男ならば誰でもいいと思う程投げ出してはいない、だからこの感覚を覚えるのはきっと相手がこの男だからだ。 「まあ、今はこれだけってことにしとけよ……んでよ……とりあえずその悩み、軽くなったらまたその時がいい……俺は女に恥ぁかかせたくねぇ、今そりゃ据え膳食わねば~って言えるくらいできらぁ……だが、やだね、んなダセェの……お断りだぜ、いや……他の誰かがそうするのは勝手だ、でも…俺はナシだ、女抱くってなら最高に格好いいクロウ様じゃねーと」 「自分に様付けとか」 「けっ……いいだろ別に!……ま、でもちったぁ調子出てきたじゃん」 「まあね」 「なら、安心した……っと、じゃあ、離れるぞ」 「だめ」 「え」 「いいでしょ、もうちょいこうしてなよ」  たったの数歳しか変わらないというのに、今はこの男が何よりも頼れる相手に思えた、本当に、自分らしくない。 〇 (格好つけてみたがよぉ……こいつはやべーぜ、おい)  安心させるために抱き締めてみたものの、血流が収まらない。性機能が壊れてない以上、健全な女子の肉体に引っ付いていれば性欲求が高まるのは必然であると忘れていた。何より今良子の求めで上半身は裸体だ、たとえ相手は服のままだとしても伝わる感触は段違いだ、何より薄手の服だからより肉感がわかる。  抱きしめるとしっかりとした筋肉の上に脂肪が蓄えられている。良子は気づいているのかわからないが正面から抱き合っている以上十二分に育った胸が腹のあたりに押し付けられていた、異性の接触と言うだけでも本能が昂るなかである種性的な部位がしっかりと押し付けられているともなれば興奮しないわけがない。  血流が早くなるのを感じた、汗が噴き出始めている。それが気温ではないことは明白だ。 (さ、さっき散々言っておいておったてるとか……格好悪いことこの上ない……)  焦るように自分の体に念じる、今くらいは格好つけさせてくれよ、なあ、おい。 「……クロウ」 「はい」 「当たってる」 「……すみません」 「いや、怒ってないけど……」  土台無理だった、色々と威厳が崩れ去ったような気がする。もとよりあっただろうか、少しくらいはあったよな、俺。 「まあ、なんだ……あんたも結構あたしのこと好きじゃん」 「そりゃね、デジタルワールドだともう1~2年の付き合いになるし」  こう考えると長い、もしもこれが現実の、こちらの世界だったら男女交際に発展してもおかしくない長さだ、意識してなかったのはひとえに向こうではもっと殺伐とした命のやり取りがあったからに過ぎない。それがすっぽり抜けたこちらだからこその精神のゆるみがこうしてるとも言えた。 「いや、別に期間関係なく女に抱き着かれてこうならない男っているの?」 「それは流石に男をガサツに見過ぎだ……」  よく男はガサツなどと言う論調を聞くがそれは正確ではない、繊細さの位置が違うだけだ。そもそも心を許してもない相手に抱き着かれたとしてそんな気分になるかは微妙なところだ、よっぽどの女好きなら別だろうがまず先になんだこいつとなる。性的な感覚を抱く前に気色の悪さや何かよくないことでも起こったのかとそう言う思考が先に来る。 「……まあやっぱ割と良子のこと好きだわ俺」 「なんか煮え切らないけどまーいいや」  いたずらっぽい顔が来る、今日何度見たかもわからない初めての顔。 「クロウ」  また、何度目かもわからないほどに名前を呼ばれた。 「ん?」  ちゅぅ、と水音。 「え、あ、おまっ!?」 「初めてだわ、あんたにあげる!」  いい、力の緩んだ腕から良子の体が抜けた。いきなりのことだから体がこわばっていたようだ。 「んじゃ、今日はあれだからまた今度デジタルワールドでね、じゃ」  そう言って足早に良子の姿が部屋から消えていく。残るのは自分だけ、静寂だけ。  まだ熱のこもる己の唇に触れる。余韻。 「……とんでもねーもん、貰っちまった」  何度ものなかの、今日初めて感じる感触。  くらくら。