時が止まればいいと思っていた。  別段、今が永遠に続けばいいとか、そういう荒唐無稽なことを 願っていたわけじゃない。  ただ、止まってしまえば、間に合ったかもしれない――そんな 後悔からの、逃げにしか過ぎない。  時間を戻して、それを無かったことにしたい、取り戻したい、 とまで願うつもりも無い。  川の流れを下流から上流に流せないのと同じだ。  起きてしまった事は、無かったことに出来ないし、変える事だ って出来ない。  だからせめて。  時が、止まればいいと思っていた。  学校に降り注ぐうららかな春の日差し。  新しい生活。妹と二人。  学園には新しい友人達。此処にはもう、自分たちを苛む誰も居ない。  あたたかく幸せな陽だまりが此処にある。  だからこそ、その安らぎが俺を苛む。  妹が微笑んでくれるたび。  友人たちと笑い会うたび。  過去の後悔が俺を抉る。  思い出すのはあの日の事。  俺が間に合っていれば、防げたかもしれない悲劇。  そんな事を考えること自体が、傲慢なのかもしれないけど。   そう、俺はヒーローじゃない。  その場に居たからって、何か出来たかなんて思えない。  でも、それでもせめて。  こんな後悔を抱く事は無かったのじゃないか、もしかしたら何かが。  ずっと、そう思っていた。  そんな、くだらない未練に、俺はずっと囚われて。  だから、次は。次こそは。 “――貴方がそれを望むのなら――”  時が、止まればいいのに―― ――私が、メフィストフェレスがその望みを叶えましょう―― 時計仕掛けのメフィストフェレス Re−incarnation 1 「――!」  シャッターを叩く金属音で、この俺、時坂祥吾は我に帰る。  気を失っていたのか。夢を見ていたのか。  体の節々に痛みを感じる。さんざん床に打ちつけたようだが、 折れてはいないようだ。  痛い。とてつもなく痛い。  だがそれでも我慢して歯を食いしばる。痛む体を必死に起こし て、シャッターの方を見る。  何度も叩かれ金属がひしゃげる。このままでは長く持たないだ ろう。ていうか、何だこれ、何が起きている……!?  朦朧とした頭を振り、俺は必死に考えをめぐらせる。  そう、思い出す。  学校の帰りの道中。遅くなったその道すがら――  あの怪物に……襲われた。  そして必死に走り、デパート地下の駐車場に逃げ込んだんだ。  無我夢中で基盤をでたらめに操作し、シャッターを降ろすこと に成功したものの、シャッターを叩く衝撃で弾き飛ばされ床に叩 きつけられた。 「何だよ、くそ、何なんだよ……!  ありえねぇだろこれ。俺は何処のパニック映画の主人公だ!」  意味がわからない。  あんな化け物が、現実にいるはずがない、と思う。  ならばこれは夢なのか?  だが体中の痛みが、これは現実だと告げている。  現実にこんな事が起きるなんて、夢じゃなければ漫画か小説の 世界だ。だが、現実は漫画や小説じゃない。  都合よく変な特殊能力が開花して、怪物と渡り合えるようにな るとか――そんな事は万に一つも無い。 「ないよなあ、そんな都合のいい事……」   俺は自嘲して笑い飛ばす。 「そんな都合のいいヒーローなんて、いねえし、あるわけねぇ」  ましてや、この俺がなんて。  そんな都合のいい力があれば、あの時後悔なんかしていない。 「……っ、と」  歯を食いしばり、なんとか立ち上がる。  ならば、逃げないと。 「冗談じゃ、ねぇ」  こんなわけのわからないことに巻き込まれて、死ぬなんてのは ごめんだ。ましてや、妹を残して死ぬなんて、冗談じゃない。  両手を握り、手の感触を確かめる。  足を踏みしめる。  何とか、動く。いまだに体の節々は痛くて泣きそうになるが、 なんとか動く。 「!?」  だがその時、轟音が響く。  シャッターがついに破壊された? 「げ――!」  折れは思わず声をあげる。  引きちぎられひしゃげた鉄の板が舞う中、そいつは姿を現す。  歯車と弾機と発条と螺子と鋼線。  そして金属板のフレーム、ボルト、ナット等で作られた怪物。  鋼のオブジェ。  首の長い四速歩行の獣らしきそれは、チクタクチクタクと時計 のリズムを刻みながら、無機質な殺意を向けてくる。  ロボット、と言うにはあまりにも稚拙にして雑多で。  言うなれば、時計仕掛けの獣。  趣味の悪い玩具のようなそれは、背中に突き刺さる捻子をキリ キリと回しながら、声帯の無い声で殺意を叫ぶ。    キリキリ。                       ガシャガシャ。          チクタク。  カチコチ。         キリキリ。 「う、だあああばあ――――!!」  気が動転して素っ頓狂な悲鳴になるが、かっこつけても居られ ない。とにかく、俺は背を向けて走る。  恐怖に突き動かされるように体の痛みを忘れて走った。  後ろは振り向かない。  ガシャガシャチクタクと……ある意味コミカルなその足音は、 それゆえに恐ろしい。 「はっ、ひ、ぜっ――は、はあっ……!」  地下駐車場から外に出る。  外に出れば人が居る。あの手の化け物は、多くの人目につくの を嫌うのが定番だ。  だから、だから……外に出れば、なんとか助かるはずだ。 「……!?」  だが、地上に出た俺を迎えたのは、更なる異変だった。  そこは、静か過ぎた。  俺の記憶が確かなら、まだ午後七時程度の時間のはずだ。  だが不自然に静か過ぎる。  喧騒が無い。いや、そうじゃない。  人は確かに居る。だがそれでも静か過ぎる。  その理由は、明白で―― 「動いて……ない……?」  町を行き交う人も、そして車道を走る自動車も、街灯の周囲を 飛ぶ蛾や蝙蝠すらも。  完全に、止まっていた。  そう、それは――  紛れもなく、昔日の俺が望んでいた現象そのもの―― 『――時が、止まればいいと思っていた』  何を馬鹿な。そんなこと、あるはずがないじゃないか。  俺は頭を振って否定する。  人は、叶わないと知りつつも望んでいたものが不意に目の前に 現れると、逆に恐怖すると言う。  今の俺がまさにそれだ。  ずっと望んでいた。時が止まればいい、と。  そしてそれは叶った。だが…… 「はは、何だよ、何だよこれ……?」  もはや笑うしかない。これはさらなる絶望、悪夢でしかない。  止まっている。誰も動かない。誰も俺に気づかない。  つまり、笑えるほどに、絶望的なまでに俺は……一人だった。  そして…… 「――!!」  それに気づいたのは、勘でも何でもなくてただの偶然だった。 眼前の光景を否定し、目をそらすために振り向いたに過ぎない。  時計仕掛けの獣の爪が迫っていた。  俺は弾かれるように走る。獣の爪は俺の背中を掠め、道路標識 を真っ二つにする。 「っ、づぁああああっ!!」  背中が痛い。学生服を引き裂かれ、背中の皮膚も破れた。  骨まで至っていないのが不幸中の幸いだ。だが楽観視なんて全 くできる状態じゃない。  本当に、悪い夢だ。  止まった世界に、捕食者と獲物の二人きり。    キリキリ。                       ガシャガシャ。          チクタク。  カチコチ。         キリキリ。  リズミカルな音を立てて迫りくる時計仕掛けの獣。  それの口が開く。  鮫のように幾重にも並んだ乱杭歯。ただしそれは全てがキリキ リとドリルのように回る螺子だった。  機械油が涎の様に地面に落ちる。  赤い光を灯す瞳が、俺を見ている。獲物を見ている。餌を見て いる。  殺される。  俺は確信する。  確実に、完璧に、決定的に。  このままでは、殺される。 “貴方は”  心の中で何かが語りかけてくる錯覚。  少女の姿。浮かんでくるイメージ。  脳裏にフラッシュバックする光景。  そこは一言で言えば、「発条仕掛けの森」……とでも言うべき だろうか。  樹がある。草がある。花がある。虫がいて鳥がいて獣もいる。  その全てが、歯車と発条と螺子と……  機械で出来ていた。  チクタクチクタク、とリズミカルに響く音。  ガタゴトガタゴト、と重厚に響く音。  それは鳥や虫や獣たちの鳴き声。  ここは――この夢は、全てが歯車で動いていた。  そのセカイの中で、樹に腰掛ける少女が歌うように語り掛けて くる。  だがそれは当然、錯覚だ。恐怖が生み出した逃避イメージ。  そう、錯覚だ。今はそれどころじゃない。  そんなイメージに囚われていたら死ぬ。嫌だ。死にたくない。 死ねない。そんなのは嫌だ。  ここでこんな訳のわからない死ねない死にたくない。  死んでしまったら。  妹が――  独りで――  遺されて―― “それを良しとするのですか” 「う」  俺の口から、漏れる。 「うわぁああああああああああああああああああ!!」  冗談じゃ――ない!  走る。  振り下ろされた爪を、体を丸めて回避する。  考えなんて何もない。ただ、このまま殺されるのだけは我慢が できない。  手を伸ばし、獣が切り倒した道路標識を両手で抱えあげる。  それを、槍のように構え、そして睨み付ける。 「がだあああああああああああああ!!」  絶叫し、突進。戦略も何もない、ただの自暴自棄の突進。  そのがむしゃらの特攻は――果たして、獣の隙を突いた。  時計仕掛けの獣の右目を貫く。  ――だが、それだけ。  何故ならそれは生物ではない、怪物だ。  その目すら、ただの発光するダイオードか何かに過ぎず、それ が砕かれたとて痛みもなければ致命的でも何でもない。  獣の腕が動く。俺の腹を横薙ぎに殴りつける。 「ごっ――!」  内臓がかき回されるかのような激痛。ダンプカーに跳ね飛ばさ れでもしたかのような衝撃。  俺の体は枯れ木か何かのように弾き飛ばされ、転がる。 「ぐっ……!」  街路樹に叩きつけられてようやく止まる。  今度は確実に、あばら骨がいかれてしまった。    キリキリ。                       ガシャガシャ。          チクタク。  カチコチ。         キリキリ。  ゆっくりと迫ってくる。  体が動かない。  これで終わりだ。何もかもが終わる。諦められない。諦めてた まるか、と思うものの、しかし体が動かない。 「終わりなのか、終わりなのかよ――こんな、こんな……!」  ふざけるな。  歯を食いしばる。だが、動かない。動けない。  諦めてもいないのに、どうしょうもない。  俺は、朦朧とする意識の中、 “いいえ、始まるのです”  そんな声を、聞いた。  そして―― 2  俺を激しい衝撃が襲う。 「……夢」  ベッドから床に転げ落ち、俺はそうつぶやいた。  ……俺の部屋、である。  背中が痛い。まあ、思いっきり落ちたからそれは当然だろう。 「うおおお、あ痛ぁ……っ」  だがまあ背中ならいい。打ち付けた面積が広いという事はそれ だけ痛みが分散されるという事だ。  脳天から落ちてたんこぶや、首を痛めたり、あるいは尻から落 ちて尾てい骨を強打するよりはどれほどマシだろうか。  まあ、それでも痛いことには変わりがないんだけど。  もそもそと起き上がり、ため息をつく。 「……ふぅ」  Tシャツが寝汗でべっとりと肌に張り付いている。下着まで汗 でぐっしょりだ。  俺は時計を見る。まだ登校までは時間がある。  軽くシャワーを浴びて汗を流しておいたほうがいいだろう。気 分転換にもなる。  俺は着替えをタンスから取り出して、風呂場へと向かった。  洗面所のドアを開け、服を脱ぐ。  洗濯機の隣の籠に、脱いだシャツとパンツを入れる。  そして、俺は風呂場のドアを開けた。  さて、ここで記しておくべき大切な事がある。  この俺こと時坂祥吾は、特に時間にルーズという訳でもない。 むしろ、どちらかというは時間にうるさい方である。  だが、いかんせん俺は――自分でも認めたくないのだが事実と して仕方ないのでここはあえて言おう――間が悪い。  バスに乗ろうとすると、運転手が時刻より早くバスを出して乗 り遅れたり。  電車に乗ろうとすると、ダイヤが乱れたり。  限定品の最後の一個を買おうとすると、別の人に取られたり。  もはや本人の関係ないところでそういうものが続くと、呪いか 何かではないかと疑いたくなるものだ。  そして、今日も俺はその間の悪さを発揮してしまっていた。  はっきりという。わざとじゃない。  重ねて言う。わざとじゃない。 「……」  湯気が晴れる。  妹の裸身が余すことなく晒される。 「や、やあ一観。えーと」  妙に寝苦しくて汗をかいてしまったので、朝風呂でしゃっきり しようとした。  ただ、それだけ、  本当にただそれだけのことだったのだが…… 「……」 「……」  見えている。  妹のあられもない裸身が余すことなく俺の網膜に焼きつく。  ドアを開けたから湯気が晴れる、だからより見通しはよくて。  見事に、綺麗な可愛い裸身が見事に。  そして。 「きゃあああああああああ!!」  頬に一撃が炸裂する。  この俺、時坂祥吾は、間が悪かった。 「ごめんね、お兄ちゃん」  朝食を用意しながら、妹――時坂一観は俺に謝る。 「いや、まあ俺も悪いし」  確かに、結果的に俺が完璧に悪い。そこに悪意があろうとなか ろうと、だ。 「でも本当、お兄ちゃんって間が悪いよねー。教室に忘れ物して 取りに行ったらラブシーン見かけたり」  あの時は思わずごゆっくりと叫んで逃げ帰った。 「気をつけないといつかお兄ちゃん、取り返しのつかない失敗し そうで心配だよー」 「気をつけてどうなるものは気をつけるけどな……」  タイミング、というものは自分の意思でどうにかなるようなも のではない。  運命だ、仕方ない、と諦めるしかないのかもしれない。 「はいはい、捨て鉢にならない。最初から諦めてちゃどうにかな るものもどうにもならないよ。  もう心配だなー、お兄ちゃん気ぃ抜けてるから」 「抜けてないよ」  頬に一発、気付けの一撃が入ったことだし、頭はシャッキリと した。  一観はそれをじと目で見て、言う。 「嘘。今日が何の日かも忘れてるんじゃない?」 「今日……? ゴミの日?」 「はあ」  ため息をつく。だめだこのヒトは、と言わんばかりの表情だ。  何が駄目なんだろうか。心当たりない事で責められても困る。 「なんだよ。物事はちゃんと言わないと伝わらないんだぞ」 「以心伝心、とか空気を読む、とかはこのひとには通じないのか なあ……」  そう言いながら、小さな箱を差し出す。 「はい」 「何コレ」 「本気で忘れてる? ……まあ自分のことには無頓着だしね。  ハッピーバースデイ、お兄ちゃん」 「……あ」  ……そういえば。 「思い出した?」 「ああ、今思い出した」 「……大丈夫かなあ、ボケちゃったんじゃない?」 「うるせー。ありがたくもらっとくよ。あけていいか?」 「うん」 「懐中時計……?」  箱の中から出てきたのは、金色に輝く懐中時計だった。 「質屋で買ったの」 「質屋かよっ」  思わずツッコミを入れる。 「ほら、こないだお兄ちゃんが見てた奴」 「あぁ、そういえば確かに……」  買い物に行ったとき、通りがかった質屋のショーウインドに飾 られていたものだ。 「よく覚えてたな」 「そりゃもう、愛しいお兄様の為ですから」 「ありがたくいただきます」  時計をまじまじと見る。  綺麗な金色をしている。  裏には刻印されている文字は…… VerweileDoch! DubistSoSchon 「べりうぇいれどっち……どぅびすとそーしゅーん……? 何て 書いてんだこれ」 「フェアヴァイレ ドホ! ドゥ ビスト ゾー シェーン。  ドイツ語、有名だよ? 時よ止まれ、お前は美しい、って」 「何それ」 「ファウストって戯曲知らない? ファウスト博士と悪魔メフィ ストフェレスの話」 「ああ、それは聞いたことあるけど」  内容まで深くは覚えていないのだが。  むしろ漫画とかアニメに出てきた、その二世の方が有名な気が する。 「あ、時間で思い出したけど、私もうでなきゃ」 「部活の朝練?」 「うん。じゃあまた学校でね!」 「ああ、またな」  一観は慌てながら用意を済ませ、元気に手を振って出て行く。  我が妹ながら慌しいものだ。 「俺も行くか……」  椅子から立ち、俺は時計を見る。  懐中時計の螺子を回そうとし、 「あれ……?」  動かないことに気づく。 「……壊れてる? ……まあいいか。後で修理に出せば」  しばらく悪戦苦闘した後、そう結論を下す。  一観には黙っておこう、とつぶやき、懐中時計をポケットにい れ、俺は立ち上がる。  そして、俺はものの見事に遅刻した。 「また遅刻かよ、時坂」  友人たちが言ってくる。 「うるせぇ島田。道に迷ったんだよ」  正確には、道に迷ってたらそのタイミングで荷物を抱えたばあ さんと遭遇。コンボかよと思いつつも、見て見ぬ不利は非常に精 神衛生上よろしくないので送って行った。  あとは泣いてる小学生とか、  その結果の大遅刻であった。 「はあ? おいおい何それ」 「ほっとけ」  実にほっといてほしい。 「どうせ荷物抱えた婆さん送っていったり泣いてる小学生の面倒 見る羽目になったらいろいろとしてたんだろ」 「悪かったな」 「うっわマジかよ! ありえねー」 「……ほっとけ」  自分だって好きでやってるわけじゃない。  というか、正直まっぴらごめんだ。  それにはちゃんと理由がある。下手にそういう善人ぶった親切 をして、そして目をつけられたくない、という理由が。  今はまだいいのかもしれない。だが小学生、中学生ぐらいだと そんな善意が「かっこつけている」と思われ、調子に乗っていて うざい、と取られる事がある。  現に、この自分がそうだった。  身から出た錆、出る杭は打たれる、とでもいうのか。  小学校の頃。  いじめられてた女の子をかばった、ただそれだけで……見事に 華麗にそして盛大に、俺にいじめがシフトしたことがある。  誰でもよかったのだろう。  さらに笑えるのは、俺がかばった女の子も俺を苛めるのに参加 したということだ。別に見返りを求めていたわけじゃないが、あ れは子供心につらかった。  まあ、俺がいじめられたのはそれのみが原因ではないのだろう けれども……と、閑話休題。  とにかく、だから俺はそういったことはせず、静かにのんびり と平穏な人生を過ごしていきたいのだが…… 「間が悪いんだよなぁ」  係わり合いになりたくないのに目の前に出てこないで欲しい。  そんなんだからついつい手を出さざるを得ないのだ。  幸い、この学校になってからは、まあ周囲の人間もある程度は 大人なのだろうか、そういうのに目をつけて苛める、というのが 流石に馬鹿らしいというか恥ずかしいのか、俺は今の所……そう いったいじめにあってはいない。  平凡平穏である。今は。  友人だっている。  クラスでも特に浮いてるわけでもなく上手くやっていけてる。  だから――  このまま時が止まればいい、と。俺は――  うららかな日差しの中、そう、  うとうとと、  意識が――  そして俺は――  意識が闇に沈み――  視界が暗転し、空転し――――  夜の街にいた。 「ぐ……っ」  体中が痛い。動かない。脇腹をダンプカーのごとき質量と速度 に殴られ、街路樹に叩きつけられて転がったかのように。  動かない。  そして眼前には――  巨大な、機械の獣が。    キリキリ。                       ガシャガシャ。          チクタク。  カチコチ。         キリキリ。  ゆっくりと迫ってくる。  体が動かない。  これで終わりだ。何もかもが終わる。諦められない。諦めてた まるか、と思うものの、しかし体が動かない。 「終わりなのか、終わりなのかよ――こんな、こんな……!」  ふざけるな。  歯を食いしばる。だが、動かない。動けない。  諦めてもいないのに、どうしょうもない。  俺は、朦朧とする意識の中、 いいえ、始まるのです  そんな声を、聞いた。  そして―― 「いや、終わりではないよ。私が終わらせない」  凛とした声が、静止した世界に響いた。 「な――!?」  俺はその声の方向に振り向く。  そこには、さらに非現実な姿があった。  着物姿の少女だ。 「時が止まっている、だからと言って世界の終わりではないよ。 これはただの現象、ただの怪異に過ぎない。  仕掛けたモノが滅びれば消え去る、陽炎のようなものだ」 「あんたは……」  俺と年は同じぐらいか、少し年上だろうか。  長い黒髪をポニーテールにまとめたその少女は、その手に日本 刀と思しきものを携えている。 「少なくとも、周囲数百メートルぐらいかな。その範囲の時間は 止まっている。内に居る者も外に居る者も、その違和感に気づく ことも無いがね。  そしてその時間停止から逃れ得るのは、私のような者か、ある いは――」  少女は、抜刀する。 「――奴らの“獲物”だ。君のような、な」  その刀は、不思議な刀だった。  刀身は間違いなく、美しい日本刀。  だがその唾から中腹の峰にかけて、歯車が埋まり、それは時計 のリズムを刻んでいる。  そして鍔は、まるで……紅玉の輝きを持つの懐中時計。 「時計仕掛けの獣――人を襲い、人の時間を食らう、怪物だ。そ して奴は、君を狙っている」  少女は言う。 「だが安心したまえ。  私はこの手の怪異から、君たちを守るために居る」  抜いた剣を、少女は正眼に構える。  時計仕掛けの獣は、その少女を敵と判断したのか、その鋼の巨 躯を跳躍させる。  鋭い爪を、少女に向かって躍らせる。だが少女は静かに、瞳を 閉じて唱え始めた。  ――天地は万物の逆旅にして、    光陰は百代の過客なり。  言葉とともに、紅玉の輝きを持つの懐中時計の、そして刀身の 歯車の動きが忙しなく加速されていく。  赤い放電が巻き起こり、刀身に纏う。  少女はその刀を円の軌跡で振るう。その刃の輝きは、空中に紋 様を描き出す。  それは魔法陣。  それに触れた獣は、その力に押し返され、弾き飛ばされる。  そして渦を巻く力はさらに加速され、そこに集まる大質量の力 は、やがて織り上げられ――    而して浮生は、夢の若しなり――!  力が、爆現する。  魔法陣を透過するように、巨大な腕が現れる。  歯車、弾機、発条、螺子――空中に浮かび上がるそれらが編み 合わされ、次々とその巨躯を構成していく。  全長3メートルの巨体。  チクタクチクタクと刻まれる真紅のクロームの巨躯。  流れるような流線型のデザインは、流麗にして苛烈。  各部から露出した銀色のフレームが規則正しく鼓動を刻む。  まるで羽衣のような飾り布が、燃え上がる陽炎のように揺らめ き、その美しさを際立たせる。  それは大地の力を秘めた赤き怒り。  時計仕掛けの――天使。 『GiIIIgOOOOEERrrrrrrRRRRR!!』  初めて、時計仕掛けの獣が声らしき声を上げる。それは錆び付 いた金属があげる金切り声、不快な不協和音。  そして、突進。  時計仕掛けの天使は、跳躍してその牙を華麗に避ける。  空中で流れるように姿勢を変え、刀を構える。  刀を構える少女の姿をなぞるように。  そして、少女は静かに、流麗に、告げる。 「時よ――」  刀が煌く。 「疾れ――!」  瞬間、その時計仕掛けの天使の姿が掻き消えた。  それを俺は目で認識できなかった。だが何が起きたかだけは、 理解できた。  早くなったのだ。早すぎた。  そう、時間を加速させたかのように。  その神速の斬撃は、いともたやすく――  時計仕掛けの獣を両断した。  その姿を、俺は眺め、そして――  そして――――  激しい衝撃と痛みとともに、覚醒した。 「ぐおっ!?」  ものすごく、痛い。  たまらず、がばり、と起き上がる。 「おはよう」 「え」  そこで我に返る。 「そんなに俺の授業がつまらなかったか、時坂祥吾?」  笑顔で答えるのは、俺のクラスの担任教師である、吾妻修三先 生だった。  そう、時間は午前十一時二十一分。場所は教室。  そして空気が重い。視線が集まる。  押し殺した笑い声も聞こえる。 「……あ」  我に返る俺。   うわぁい、見事に寝ていたようだ。  まあ、授業中の居眠りなどはよくある風景である。  だが、いかんせん間が悪かった。  そして、その羞恥に追い討ちをかけるように。  脳天に吾妻先生必殺の、二度目の鉄拳制裁が打ち下ろされた。 「つか、お前バカだべ? 吾妻センセの授業で寝るなんて」  授業がつつがなく終わった後、頭を抑えている俺に向かって島 田が言う。 「うるせー。寝たくて寝たわけじゃないって」 「まあ、吾妻の怖さ知ってりゃ居眠りはねーよな」 「だよなあ」  頭を抑える俺だった。正直かなり痛い。いまだに響く。 「つーかいまどき体罰はねーだろ。暴力教師。でも生徒から嫌わ れてねーのは人格っつーか人徳なのかねぇ」 「……だな」  そう、問答無用に殴られたのに不思議と悪い気はしない。すご く痛いけど。  吾妻修三は、言ってみれば古いタイプの教師であった。  一昔前のドラマに出てくるような、厳しい熱血教師、とでも言 うべきか。  どちらかというと静かなタイプだが、生徒の悩みに真摯に向き 合い、怒るべき時は怒るが決して理不尽ではなく、そして単純な 善悪のみで物事を見ず、だが筋は曲げない。  そんな人柄が、生徒たちには人気であった。  俺も嫌いじゃない。尊敬できる大人だと思う。 「で、なんかうなされてたっぽいけどどんな夢見たんよ」  島田が笑いながら問いかけてくる。 「いや、なんというか……」  真面目に答えたくない夢だった。  化物に襲われ、女の子に助けられる夢なんて。  しかも、今朝もその夢を見た。まったく同じ内容だった。  やはりあれか。そういう願望でもあるのだろうか、俺。  ……進歩してねぇな、我ながらというかなんというか。 「犬に追いかけられる夢」  適当に茶を濁して答えておく。  アレを犬というのも無理があるかもしれないが、夢の世界では ああいうのを犬というのかもしれない。  うん、嘘は言ってない。 「ふーん……ん?」 「?」 「おい、なんか落としたぞ」 「ん?」  ポケットから零れ落ちたのは、時計だった。 「なにそれ。珍しくね」  島田が興味深そうに見る。 「ああ、これは――」  妹からの誕生日プレゼントの時計だ。  俺は島田にその事を話す。 「……と言うわけ」 「ノロケかよ、糞ァ!  あーあー、俺もかわいい妹欲しいよなー。姉貴なんかかわいさ どころか女らしさのカケラすらねーしよ。なんだあのゴリラ」 「そうか?」 「そうだよ! 今朝だって俺の朝メシ食いやがったんだぞ!」 「いいだろそのくらい……」 「よかねぇよ! 昨日の晩メシの残りのトンカツ! 楽しみにし てたんだっつーの! 返せよ!!」 「俺に言われても……」  そもそも晩飯の残りのトンカツなんて、衣のべちゃべちゃ感が あまりよろしくないのではあるまいかと俺は思うわけだ。  うちの妹なら晩飯に余分に揚げたりせず、朝に改めて揚げてく れるだろうが…… 「なんだよそのうちの妹なら晩飯に余分に揚げたりせず、朝に改 めて揚げてくれるだろうが……ってツラぁ」 「鋭いな」 「否定しろよこのシスコンっ!? ノロケかノロケだなノロケな んですねノロケなんだなこのチクショウがぁっ!!」 「あ、次の授業」 「スルーかよっ!? だーやってらんねぇその勝者の余裕ッ!」  こいつが何を言っているのかわからんが、とりあえず次の授業 である。今度は居眠りしないように注意しよう。  またあんな夢を見て殴られるのも御免だし。  …………。  ……。  …。  授業はつつがなく終わり、そして昼休み。  今日は一観が部活で早く出たので、弁当は無しだ。  両親もここ一週間は仕事場に泊まりでろくに帰ってないし。  というか二人ともちゃんとメシ食ってるんだろうか?  まあ、両親の心配をしててもしょうがない。あの二人は要領い いしタフだし、うまいことやってけてるだろう。 「時坂ー、メシどうすんだ?」 「敗残兵として出陣」 「なるほど」  遅参兵、とも言う。授業終了即ダッシュの機を逃した今、慌て て購買目指して走ってもロクなのにありつけないどころか、大量 の人の波に潰されてしまうだろう。  ならばある程度ゆっくりと行くのもまたコツだ。  どんなのが残ってるかわからないし、最悪何も残ってない可能 性も大いにあり得るのだが……その時は外のコンビニに行く事で なんとか対処すればいい。 (……行くか) 「お、時坂」 「……吾妻先生」  ぱったりと廊下で会う。とたんに頭が疼いた気がした。 「今からメシか?」 「はい。購買に」 「あー……」 「?」  先生の目が泳ぐ。 「……遅かったな」 「……」  その一言で察した。 「早くないっすか? この時間……」 「今日は購買組が多いらしくてなぁ、そういう日なんだろう」  ……。  間が悪いなあ、まったく……  仕方ない、コンビニでも行くか。  だがコンビニは学校から少し遠いのがつらい。それに同じく 買いそびれた連中がいるのなら、果たして間に合うかどうか…… 「……」 「時坂。半分食うか?」 「え? でも先生は……」  買えたのか。 「腹減りすぎてて買いすぎてな。よく考えたら全部食えそうにな いんだ、これが」  よく考えたら俺は小食だからな、と付け加える先生。  ……。  本当にそうだろうか。  食い盛り育ち盛りにの俺たちに比べると確かに食欲は劣る、と 言われれば頷けるかもしれないが……先生は体育教師でもないの に体がしっかりとして筋肉質だ。体育教師が休んでる時に臨時を 頼まれるぐらいだし。  鍛えてるだろうその体を維持するには、しっかりメシを食わな いと難しいだろうぐらいは俺にも判る。小食の人間の体つきじゃ ないだろう、これは。 「ありがとうございます」  でも、俺がそんな変な気配りした所で意味ないし、先生には筒 抜けだろう。  俺は黙って、先生の好意に甘えることにした。  貰ったのは、パックに入った鶏おにぎりとから揚げ三個だ。 「沢山食え、とは言わないがちゃんと食えよ。メシは抜かさずに 三食きっちり食うことが学生の本分だ」 「……学生の本分は勉強じゃないんですか?」 「それは優等生に任せておけ。人には向き不向きがある。勉強が 向いてない奴は、自分の向いている事をきっちりとやればいい」 「……それ、俺がメシ食うしか能のない人間って聞こえます」  否定は出来ないんだけど。 「失言だったな、許せ」 「じゃあこのメシ代をチャラにするって事で」 「調子にのるな。それはそれ、これはこれ、だ」 「はい、先生」 「じゃあ俺はこれで。午後の授業、寝るなよ」  そして吾妻先生は去っていった。  ……。  やっぱり、いい人だよな、あの先生。  俺は屋上へと来ていた。  流石に人は多いな……。  みんな考えることは同じか。というかなんで学生は屋上が好き なんだろうな。  さて、開いてる所はあるだろうか……。  俺が周囲を見回していると、見知った顔がひとつ。 「あ、お兄ちゃんー!」  一観だ。一観が女の子たちの輪から顔を出している。  邪魔しちゃ悪い、か。  俺は手を軽く振って挨拶を返すと、屋上から出ようとする。  扉に行きかかったとき―― 「何処いくの?」 「うわっ!?」  一観がすぐそばまで来ていた。 「ひ、一観……びっくりした」 「もー、なにそのお化け屋敷でものすごいモノみたような反応」 「いや、悪い。驚くつもりはなかったんだが」  というか驚くつもり、って何だ俺。なんだその矛盾した心得。 「まあいいけど。で、ご飯食べに来たの?」 「ああ」  さすが鋭いな。まあビニル袋持って屋上に来てれば目的はひと つしかないだろうが。 「じゃあ、一緒に食べよ?」 「……は?」  いきなりそんなことを一観は言ってくる。 「……友達は?」  さっきまで一緒にいただろ?  どうするんだよそれ。 「事情話して抜けてきちゃった」 「……」  事情、て。  お兄ちゃんとご飯食べたいから抜けるね、とでも言ったのか。  それは……なんというか。  さぞや周囲の女友達も面食らったことだろう。  というか友達づきあいは大事だぞ、優先しろよ。  友達が少ない俺が言っても説得力無いから黙っておくが。 「昼休みにお兄ちゃんとご飯たべるの、久しぶりだもん」  一観はそう言って、腕を組んでくる。いや、組んでくるという よりはひっついてくるというか、むしろ木によじ登ってくるコア ラみたいというか……。  まあ、悪い気はしないのだが。 「朝とか夕食とか、いつも一緒だろ」 「それは別腹なのです」 「甘いものだろ、それは」 「甘いよ?」 「……」  駄目だ。ふだん聞き分けがいい我が妹は、しかし一度わがまま モードに入ると頑として言うことを聞かないのだ。  中学の時なんかそれで布団に入ってこられて死ぬほど困った事 もあった。しっかりと覚えてる、あの晩は寝られなかった。  こうなると勝ち目が無い。畜生、ずるいよなあ。  素直に敗北を認め、諦めるしかない。  あと、そろそろ周囲の目が痛い。  だってなあ、女の子に抱きつかれてる形だもんなあ。  知らない奴らが見たら間違いなく誤解するだろう、これは。 「早く行こうか、一観」 「うん、何処に?」 「そうだな……」  考えて、俺は行き先を告げる。  屋上の次に好きな場所だ。 「ここ?」  そこは小さな図書室みたいな所だった。 「図書準備室だよ」 「鍵は……?」 「閉まってる。だけどこっちの後ろの扉は開いてるんだよな。  たてつけ悪いし、ほとんど使われないってんでこっちは放置」  おかげで忍び込むにはとても便利なのだ。 「よっ、と」  よし、開いてる。  俺たちはドアを開け、中に入った。 「……普通だね」 「ああ」 「お兄ちゃんのことだから、なんかすごい秘密基地っぽい所かと 思っちゃったよ。いろんな標本や剥製とかガラクタみたいなのが ぎっしりあるの」 「そういうの憧れるけどな」  流石に理科準備室とかその手の部屋は危険物もあるので施錠も 厳しい。ここは余った本、ダブった本、読めなくなった本とかが 置かれている部屋だから頻繁に使われることもないし、管理もそ んなに厳しくないのだ。 「……否定しないんだ」  男の浪漫だからな、秘密基地は。 「さて、食うか」  時間は有限だ。なんだかんだいって昼休みも半分近く過ぎてい るし、あまりのんびりと喋っていても進まない。 「うん」  俺と一観は椅子に座る。  埃をタオルで拭いて、机の上におにぎりとから揚げを乗せる。  一観はパンだ。 「そういや、購買はあっさり品切れになったと聞いてたが……」  一観は運動部所属だ。だが、そんなに運動が得意という方では なかったはずだ。 「らしいね。でもちゃんと買えたよ」  買えてたのか。  確かに一観のいる校舎のほうが購買に近いが…… 「女の子のネットワークは色々と便利なんだよ?  みんなでローテーション組んで買出し部隊決めてるの。なんか ね、購買のおしくらまんじゅうも、ちょっと声出せば人の波が引 いていくとか、買出し部隊の子が言ってたけど」  ……。  怖っ。どんな声上げてるんだそれ。  そして恐るべし、女子の団結力。  これ以上考えるのはよそう。俺は机の上に眼をやる。  一観のパンは、クリームパン二個とあんぱんだった。  クリームパンの一個はたべかけだ。途中で切り上げてきたのだ からまあとうぜんか。 「クリームパン、好きなんだな相変わらず」 「うん」  昔から甘いものが好きだからな、こいつは。  特にクリーム系。  昼飯に甘いもの系ばかりというのもどうかと思うが、男とは違 うのだろうしそこは口を出すところではないだろう。  しかし、甘いものは別腹というわりに甘いものしか食わない場 合は、本来の胃袋には何が入るのだろうか?  女体の神秘、って奴か。 「あ、お兄ちゃん、から揚げ一個貰っていい?」 「ん? ああ」  せがんでくる一観。まあ断る理由は無い。理由は無いが…… 「交換な。先生に分けてもらった奴だから、少ないんだよ」  おにぎりはふたつ、から揚げは三個だ。  健康的な男子生徒の昼食にしては少なすぎる。贅沢言うつもり は全く無いが、いくら妹の頼みとは言えただでくれてやったら俺 の胃袋に優しくない。そこはきっちりしないといけないのだ。 「わかった。じゃあこれ」  差し出してきたのはクリームパンだ。  さっきの半分状態からさらに半分……四分の一になっている。  ……まあ、量としては問題ないのだろうけどさ。 「おう」  俺はクリームパンの残骸を受け取り、クリームパンが乗ってい た袋の上にから揚げを置いた。ちなみに一番でかい奴だ。 「ありがと」 「おう」  そして俺はクリームパンを食べる。甘い。 「……間接キスだね」 「ぶほっ!」  むせた。  いきなり何言うかなこいつは!  あやうく口の中のクリームパンを噴き出してしまう所だった。 「冗談だよ」 「変な事言うな、ったく……兄妹だろが」  今更の話だ。そんなことをいちいち気にする方がおかしい。  おかしいのだが……実際に面と向かってそう言われると意識し ないのもまたおかしいという二律背反というか矛盾というか。  そもそも、俺は……一観をそういう風に見ていない。  あの時、そう決めたんだから。 「そうだよね、兄妹だもんね」 「ああ」 「だからお風呂とか覗いちゃうんだ?」 「ばゃひゅっ!」  変な音が出てまたむせた。  というかむせた時の擬音じゃねぇ! 「ふっ、不可抗力だっ、あれはっ」 「うん、わかってるって」  確信犯か。このやろう。しばらくそのネタで弄るつもりか。  いつか見てろ。ぎゃふんと言わせてやる。  俺はそう固く誓い、残りのおにぎりを頬張った。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  そして午後の授業が始まる。  この時間は敵だ。すごく眠くなる。  だが寝てはいけない。  寝てはいけないのだ。  そして俺のまぶたは―― (……)  あっさりと、俺を裏切った。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  巨大な鋼の獣が、バターのように綺麗に真っ二つになる。  そして自重に耐えかねるかのように、その巨躯を構成していた 歯車、発条、螺子、鋼線、滑車……それらの結合が解け、崩れ落 ちていく。  粉々に、バラバラに。  彼女の――彼女の呼び出した巨大な機械仕掛けの天使の、たっ た一撃の斬撃によって。 「……」  それを俺は、全身の痛みも忘れ去り、ただ呆然と見ていた。  見ているしか、なかった。  残骸が崩れる。そしてそれは…… 「!?」  俺は自分の目を疑う。  消えていく――?  その歯車たちは、存在そのものが崩れていくように……  錆付き、砕け、ほつれ、虚空に消えていく。  それはなんとも幻想的な光景だった。  気がつけば。  あの時計仕掛けの獣は、存在そのものが最初から無かったかの ように――消滅していた。  歯車の一枚も残すこと無く。  鉄錆の一粒も残すこと無く。 「――」  その人はため息をひとつ付き、刀を収める。  そして、俺の方を振り向く。 「……」  なんというか、綺麗な人だった。  凛とした、という表現がこの上なく似合っている。 「無事……のようだな」  そういって安堵のため息をつき、俺に近づく。  その白い指が俺に触れる。 「ふむ。致命的な怪我は負っていないようだな、打撲や裂傷程度 か……うむ、これなら問題ない」 「あ、えと……はい。じゃなくて、あんたは一体……これは」  俺の質問に、 「夢だ」  彼女はそう答える。 「ゆ……め?」 「ああ、夢だ」 「君は、見たことを忘れればいい。全ては夢だ、夢なんだ」  そして彼女は、俺の顔の前に手をかざす。  不思議な匂いがする。  香水? わからない。嗅いだ事の無い匂いだ。  ……意識が、遠のく。なんだ、これ…… 「目を閉じて。そして目を開けたとき、君は全てを忘れていて、 普段の日常へと戻るだろう。そして家へと帰路に着き、そのまま 自分の生活へと戻るんだ。いいね?」  ……よくはない。  そんなふうに、簡単に済ませられるような体験じゃないし。  そりゃあ、夢だといったほうがしっくりくる。それくらいに荒 唐無稽で無茶苦茶な展開だから……ああ、やっぱり夢なのか、っ てそうも思えて…………いや…………  ……………………。  ……………。  ……。  …。 「……」  俺は目を覚ます。  どうやら教師に見つかっての鉄拳はなかったようだ。  あるいは見つかっても放置されたか。 「よし、今日はここまで。ここ、テストに出るぞー」  ちょうど授業が終わる頃だったようだ。 (……しかし)  今日一日で三度目だ。  夢の続きを見る……それ自体は珍しいことだけど、それでもあ り得ないことではないと聞く。  だけど一日に三度。  これはんなり異常なんじゃないだろうか?   不安がよぎる。  なにか、とてつもなくよくないことの前触れのような……。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  そんな言いようの無い不安、喉に棘が刺さったような。そんな 気持ちのまま放課後になる。  忘れよう、気にするな。そう頭で言い聞かせても無理な話だ。  だが、下駄箱で靴を履き、中庭に出たとたんに―― 「……」  その嫌な気分も不安も棘も何もかもが、吹き飛んだ。 「……!?」  俺は、自分の目を疑う。  その人は、夢の中で会った、あの女の子だ。  俺を怪物から助けてくれた、女剣士。  それが、この現実に、いる。 (どういう……ことだ!?)  夢だ。あれは夢だ、夢のはずだ。そうじゃなきゃおかしい。  現に……彼女自身が、俺に夢だと告げたはずじゃないか?  るいやまてそれはおかしい。夢の中の出来事を信じる方がおか しいだろう。  ならなんだ、これは何だ。 (……確かめないと)  俺は走る。  走って、彼女を追いかける。  校舎裏へと彼女は歩く。  俺は走り、追いついて―― 「……?」  いない。  確かに、こっちに…… 「ストーカーとは感心しないな、君」 「うわっ!?」  背後から。急に声がかかった。  後ろに回りこまれていた? ……いつのまに。  「……っ、ち、違う。俺はストーカーじゃ……」 「そうか、違うのか。なら君は何だ?  ストーカーでもないのに他人の、それも女子の後を付回すとは あまり関心する趣味ではないが」 「いや、そういう趣味を持つのがストーカーってんじゃ……」 「む。そうか、それは失敬した」 「あ、はい」  わかってもらえたようだ。 「つまり君はそんな趣味を日常的に行うストーカーなのだな?」 「まったくもってわかってない!? そういう趣味もなければス トーカーでもないよ俺!」 「そうか、すまない。では君は何だ? 初対面のはずだが」 「……」  その表情や口調からは、あの出来事を伺わせるものはない。  本当に、俺のただの夢でしかない?  だがそれにしては酷似しすぎている。いや、そのものだ。声も 喋り方も何もかもが、同じなのだ。 「……」  黙っていても仕方ない。 「そ、その……変な事言うかもしれないけど」  俺は、話すことにする。  今更愛想笑い貼り付けて逃げ出したところで何も意味はないし 逆効果にも過ぎるだろう。  そして全てを話した後、彼女は…… 「知らないな。夢でもみていたのではないのかい?」  そう一笑に付した。 「いや、そんなはず……!」  俺は食い下がる。  自分で話していて、逆に実感を持ったのだ。  リアルすぎるし、目の前の人と夢の中の人はあまりにも合致し 過ぎる。あれは夢なんかじゃない。 「私を夢に出すのは君の勝手だが、現実にそれを求めないでくれ たまえ。まあ、夢とはままならないものであるから、致し方ない だろうから追求はしないが」  そう言って、その人は踵を返す。  その後姿は、どんな言葉よりも雄弁に拒絶を表していて―― 「……」  俺は、それ以上何も言えなかった。  そのまま俺は学校を出る。 「……」  なぜか、すぐに家に帰る気にはなれなかった。  まあ、このまま直帰した所で、親も妹もいない、ひとり寂しいわけだから仕方ないかもしれないが。  とりあえず、適当に散歩して、時間を潰すか……。 「……」  顔を上げると、そこには古い時計屋があった。 時計の修理いたします≠ニ張り紙がしてある。  ……そうだ、俺は一観に時計を貰ったんだ。  修理を頼むことにしよう。  俺は店の中に入る。  そこは、まさしく時計屋だった。  所狭しと時計が並んである。  柱時計、置時計、腕時計、懐中時計……。   「やあ、いらっしゃい」  声がかかる。  店長だろうか。いや、店長の娘か、それともアルバイト?  声をかけてきた人は、黒ずくめの少女だった。 「何かお探しかな? 仕事に使う腕時計、それとも君の帰りを待つ柱時計、様々なお望みの時計を用意しましょう。  それとも……人生と云う名の時の迷宮の迷い児かな? ならば君の失った時間について共に探す旅にでようか?  人間はみな、時をさすらう旅人なのだから」 「あ、いや……」  何だろう。  芝居がかった、もったいぶった喋り方をする女の子だ。 「ええと、時計の修理って、壁紙があったので」 「ほう」  少女は目を細める。 「珍しいね。いや、時計の修理を頼みに来る客は多い。  だがその手の客はみな年配の老紳士だ。君のような若者が時計の修理に訪れるとは、面白い」  興味深そうに笑い、俺を覗き込んでくる。 「は、はあ」 「それで? 君の時計はそれほどに大切なものなのかな?」 「あ、うん。妹に貰った誕生日プレゼントで……」 「ほう! それはいいね、実にいい。誕生日に時計を贈る意味を君は知っているかい?」 「いや……特に」 「そうか。無知はいいね、知る喜びに溢れている。無知とはけして愚かという意味ではないのだよ。  さて、時計を贈るというのはだね、あなたと同じ時を歩みたい≠ニいう意味や、新しい人生を生きて欲しい≠ネどの思いが込められている事が多い」 「同じ時、って……」  プロポーズみたいだな、それ……。 「ふ。まあ妹君からなら、そんな意味深さはないだろうね。  だがそれでも時計を贈るというのは最上級の親しみが込められていると考えて差し支えない。時計とは特別なものなのさ」 「……」 「話がそれてしまった。では見せてくれないか」 「あ、はい」  俺はその時計を見せる。 「……ほう」  その時、彼女の表情が変わったように見えたのは、俺の錯覚だろうか。彼女はまじまじとその時計を見る。 「ふむ……」 「あの、どう……?」 「無理だ」 「は?」  俺は思わず声をあげる。 「この時計の針を進めることは、私にはできない。それは君にしか出来ない事だよ」 「すまん、よく意味が」 「いずれわかる」  そう言いながら時計を俺に返してくる。 「……?」 「時間というものは不思議と思わないかね。常に同じように流れる、万物万人等しく残酷なまでに。だがそれでも時間は等価ではない。君も覚えがあるだろう、子供の頃の一日は大人の三倍だ」 「……まあ、確かに」  特にいじめられっ子の一日は最悪だ。  昼間は今日が早く終わればいいと耐え、夜は明日がこなければいいと長く拷問のような時間を過ごす。  いや、そうでなくても……子供の時間は長い。  大人と、他人と同じ一日24時間のはずなのに。 「外的時間と内的時間。他にも時間の概念を表す様々な言葉がある。おかしいな、時間は常に絶対のはずなのに? なんとも不思議で実に神秘的だ、興味深い」 「そう考えると、まあ確かに」 「そう、古来から人は時間に魅了され時間に挑んできた」  彼女は店内を見回す。 「そう、永劫に挑んできたんだ。  おお、時よ止まれ。汝はかくも美しい――!  いい言葉だと私は思うよ。実に詩的じゃないか」 「止まって動かない時計。だが言っておくと、それは壊れている訳ではない。そう、それがかくあるべき姿なんだ」 「……?」  それはつまり。  最初から動かない、時計の形をした置物……って事なのか?  ……何の意味があるんだ、それ。  いやまあ、だけど……  意味なら、ある、か。一観が買ってくれたものだ。  それだけで、俺にとっては何よりも重い、宝物だ。 「いい顔だ」 「っ!?」  びっくりした。何を言い出すのか。 「ああ、やはり君とそれの邂逅は運命的だと私は思う。その時計の止まった針を君が動かせたとき――そこにこそ、君の永劫は存在するだろう。君が見出し君が動かし君が契る、そこにこそ」  感極まった風に言う。 「――意味が、生まれるんだ」 「……」 「おっと、話し込んでしまったね。そろそろ閉店だ。悪いけど」 「あ、ああ」  いつのまにそんなに時間が経ってしまったのか。  俺は促されるままに時計をしまう。そして店から出る。  その店から出る直前に――俺は店員の少女の声を聞いた。 「――君の行く道に、|時の神々《クロノスとカイロス》の祝福があらん事を」    そんなに長い間過ごしていたつもりはなかったが、すっかり遅 くなってしまっていた。  今日は色々なことがありすぎた。 「夢、かなあ……」  あの少女のこともそうだし、それに……時計屋の事すら、狐に つままれたとか、狸に化かされたとか、そんなかんじのあやふや になってきている。  夢か現か判断が付かない。  ……この歳でボケてしまうのは流石に嫌だなあ。  そう思いながら俺は家へと帰り着く。  さて、頭を冷やすというか、頭を切り替えるというか……とに かく、シャワーでも浴びるか。  洗面所のドアを開け、服を脱ぐ。  洗濯機の隣の籠に、脱いだシャツとパンツを入れる。  そして、俺は風呂場のドアを開けた。 「……」  湯気に満ちている。  一観が先に入っていたのか、風呂桶には湯が張られていた。  手を入れてみる。まだしっかりと熱い。  ちょうどいい、ということか。俺もどちらかというとシャワー より湯船派だし。日本人だもの。  まず、かけ湯をする。背中がしみる。 「っつ〜、傷に染み……え?」  ……傷?  傷って何だ。俺は怪我なんて…… 「!」  あわてて鏡を見る。  その背中には、傷があった。  血は止まっているし肉が盛り上がっている。治りかけの、ほぼ 塞がっているが――  巨大な爪に切り裂かれたかのような、傷が背中にはあった。 「……」  夕食も味がわからず、一観が何を言ってたてのかもまるで頭に 入らなかった。  あれは夢だった。夢のはずだ。あんなことあるわけがない。  だが、あの彼女は確かに夢に出てきたのと同一人物。  そして、この背中の傷……。 (何なんだ、これ)  まったくわけがわからない。  理解の範疇を超えすぎている。  俺はおかしくなってしまったのか?  それとも――  前々からおかしくなっていたのをやっと自覚したのか?  わからない。  色々と考えても、答えは出ない。  出ないまま、俺は――  意識を闇の中へ―― ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「!?」  いつのまにか、ベッドの上ではなく、別の場所に俺はいた。  そこは……一言で言えば、「発条仕掛けの森」とでも言うべき だろうか。  樹がある。草がある。花がある。虫がいて鳥がいて獣もいる。  その全てが、歯車と発条と螺子と……  機械で出来ていた。  チクタクチクタク、とリズミカルに響く音。  ガタゴトガタゴト、と重厚に響く音。  それは鳥や虫や獣たちの鳴き声。  ここは――この夢は、全てが歯車で動いていた。 「ゆ……め、だよな?」 『そう。これは夢です。私の、そしてあなたの』 「だ、誰だ?」 『私ですか? 私は……』  俺のさの声に応えるかのように、地面に落ちていた歯車が組み 合わさる。  そしてそれは……人間の少女の姿をとった。  漆黒の長い髪に抜ける様な白磁の肌。  丹精に整った、人形のような、あるいは芸術品のような顔。  紫水晶の瞳は、美しく澄みながらも、諦観したかのような不思 議な翳りを見せていた。 『メフィスト。メフィストフェレス(愛すべからざる光の君)』 「メフィ……スト?」  俺は思い出す。朝、確か一観がそんなことを言っていた。  メフィストフェレス。ファウスト博士を誘惑し付き従った、悪 魔の名前。 「それが何で俺の夢に?」 『あなたは私の新しい操奏者(コンシェルター)なのです。  あなたが望むなら、私は伴侶のように、召使のように、あるい は奴隷のように仕えましょう』 「何……言ってるんだ?」 『あなたには、私と契約する理由があるはずです』 「わけわかんねぇ。何言ってんだよ!?」 『……』  それには答えず、メフィストはただ指を指す。  その指の方向に視線を向けると…… 「な……一観っ!?」  歯車で出来た十字架に磔にされ、時計の秒針に胸を突き刺され 息絶えている妹の姿があった。 「一観っ! 一観ぃいいいっ!」  俺は駆け出し、一観に触れる。  指が触れた瞬間――妹の体は鉄錆と歯車になって砕け落ちた。 「……っ!」  掌に歯車が落ちる。それは錆びて崩れ溶け、まるで血の様な痕 を俺の掌に残す。 「なんだよこれ、夢だからって……趣味悪いだろ!」 『そうですね。確かにこれは夢――』  メフィストは静かに言う。 『ですがこれは――ただの夢ではありません。  いずれ起きる現実。  あなたの妹さんに――残された時間は、少ない』 「はあ!?」  何を……言っているんだこいつは! 「何を言ってるんだお前! いきなりこんな、はいそうですかっ て信じられるか! 夢なんだろこれ、夢ならとっとと覚めろ!」 『……』  叫ぶ俺に、メフィストはただ静かに目を閉じる。 『いずれ来る未来。だけどそれは箱の中の猫のように、確定され たものではありません。  救う方法はあるんです。未来を覆す方法が。  私と――メフィストフェレスと契約し、誰かの時間を奪い、与 えれば……  彼女に残された時間は増え、その命は永らえるでしょう』 「奪い――与え、る……?」  なんだ、それは?  誰かの時間を奪う? それってつまり―― 『はい、奪うのです。その人の、残された命の時間を』 「……っ!」  つまり。  殺せと……言うのか! 妹のために人を殺せと! 『そうしなければ――』 「うるさいっ!」  俺を激しい衝撃が襲う。 「……夢」  ベッドから床に転げ落ち、俺はそうつぶやいた。  ……俺の部屋、である。  背中が痛い。まあ、思いっきり落ちたからそれは当然だろう。 「うおおお、あ痛ぁ……っ」  だがまあ背中ならいい。打ち付けた面積が広いという事はそれ だけ痛みが分散されるという事だ。  脳天から落ちてたんこぶや、首を痛めたり、あるいは尻から落 ちて尾てい骨を強打するよりはどれほどマシだろうか。  まあ、それでも痛いことには変わりがないんだけど。  もそもそと起き上がり、ため息をつく。 (ていうか、ものすげーデジャヴだ)  昨日もこんな事があった気がする。  一字一句まるごと同じで。  だが……確実に違うことがひとつだけある。  夢の内容。  あの夢じゃなく、別の夢で。  それは。 (……ばかげてる)  妹が、一観が死ぬ?  だから助けるために人を殺せ、だと?  そんな事は出来ない。出来るわけがない。  それに―― 「夢だ、ただの夢。完璧にただの夢だ。その証拠に――」  その証拠に。  ……証拠、に……。 「……」  そんなものはない。自分で言ってそもそも馬鹿げている。  そんなのは悪魔の証明と同じだ。 「……朝メシ、食うか」  俺は気持ちを切り替える。  こんなことにいちいち気を割いてはいられない。  普段どおり、いつもどおりに、だ。  俺は朝食を食べるためにリビングへと行く。  気持ちを、切り替えて。日常を繰り返すために。  だから、俺は気づかなかった。  あの時計の針が、少しだけ動いていたことに。  それは――始まりだった。  終わりの、始まりを刻む――  前奏曲。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「ふぅ」  朝風呂のシャワーで気持ちを落ち着ける。  二日連続で朝風呂というのも珍しい。普段は別に朝風呂なんて あまりしないのだが。  熱めの湯で体を温めた後、水で一気に冷やす。  暖かくなった春先だから出来る芸当だ。  冬だと自殺行為である。まあ冬場でも水風呂に入る人もいるら しいから断言できないのだが。 「おはよう」 「うん、おはよう」 「親父たちまだ帰ってないの?」 「みたいだねー」  放任主義にもほどがあるっつーの。 「やだね仕事の虫は。俺たちがグレたらどうすんだって」 「でもお兄ちゃんぐれないでしょ。そんな度胸とかなさそう」 「馬鹿言うな。俺はワルなんだぞ。中学の頃なんかそりゃもう、 あまりのワルっぷりにハブられてたぐらいだからな!」  いわゆる中二病をこじらせていた、という奴だ。  思い出したくない。冬に皆がコート着て学校に登校する中、俺 一人だけマントを着て登校していったあの日とか。  目がものもらいになった時、眼帯を病院のものではなく、海賊 みたいなかんじの黒い眼帯にした時の事とか。  ……あ、駄目だ気が滅入って来た。 「自分の言葉でダメージうけないでよ……」 「お前にもいずれ判るさ……ふふ、ふ。自分自身の若さゆえの過 ちを不意に思い出してもだえ苦しむ瞬間って奴」 「ああそうさ、いずれお前だって俺のことを「お兄ちゃん」から 「兄貴」「クソ兄貴」とか呼ぶようになったりして、俺と仲良か った事を消したい黒歴史にしたりするんだぜ……  そして……」 「…………」 「……」 「……」 「駄目ぇーっ! そんなのお兄ちゃん許しませんよ! 門限ちゃ んと守りなさいッ! お前は帰れ餓鬼ャァッ!! つかもぐぞゴ ルァァ!! 我が闇黒の根性焼きを食らえいっ!!」 「落ち着いてお兄ちゃん帰ってきて!  あと誰と戦ってるの!? ていうか何をもぐの!?」  ……。  やめよう。  考えれば考えるほど大ダメージだ。 「……うん」 「?」 「昨日の夜元気なかったみたいだけど……安心した。  いや別の意味で元気なくなってたけど、それでもやっぱりいつ ものお兄ちゃんだ」 「……」 「悪い。心配かけたか?」 「ううん」  微笑む一観。  ……ううむ、駄目な兄貴だよなあ、俺。  心配かけるなんて、兄貴失格だ。 「じゃ、ご飯にしようよ。今日の朝ご飯はとんかつだよ」  ……。  昨日の島田との話を思い出す。  とんかつ……  もしかして、うちの妹はエスパーか何かなんじゃなかろうか。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「おっす」 「よう」  島田が挨拶してくる。 「ンだよ、その元気いっぱいなのか意気消沈なのかわかんねぇ微 妙なツラ。なんかあったのか?」  ……鋭いのか何なのか。島田は俺にそう言ってくる。 「妹にヘコまされた」  事実を端的に言う。詳しくは言いたくない。 「喧嘩……じゃねぇよな」 「違うけど似たようなもの?」 「いいじゃねーの、賑やかで。俺もかわいい妹欲しいよなー」  島田は言う。そしてその後はお決まりの姉に対する愚痴が…… 「一人っ子はつれぇぜ」  ……。 「……は?」  ちょっと待て。  一人っ子……だと? 「おい」 「んぁ?」 「一人っ子って何だよ。あれか、姉と喧嘩でもしてんのか?」 「何言ってんだよ時坂。姉? いねーってそんなの」  その怪訝そうな顔には、俺をかついでいるというような気配は 微塵も感じられなかった。 「姉でも妹でもいいから欲しいよなー、いやかわいければ弟でも この際我慢するわ俺……あーあ、くそ、いきなり血の繋がってな 年上の妹でも出来ないもんかねー」 「……」  どう……なっている?  なぜ島田は……いつも口にしていた姉の事を忘れてる!  俺は何度か、彼女に会ったことがある。  口喧嘩が絶えないものの、仲のよい姉弟だった。  断じて、島田の妄想姉貴とかいうオチはなかったはずだ。  なのに。  なんでだ……?  あの後、どうしても腑に落ちなくて俺は色々と聞いてみた。  だが答えは同じだ。  島田の姉を知っている人間がいない。  最初から知らない人たちも多い。だが、確実に知っているだろ う島田の友人たちの誰も彼もが、彼女のことを綺麗さっぱりと忘 れているのだ。  それどころか、俺に疑いのまなざしを向けてくる。  ……ああ、この視線は見覚えがある。  疼く。  あの時だ。俺がいじめられ、無視されたあの時に近い。  だが、そのものじゃない。  それに近いだけだ。今なら引き返せる。ここが分水嶺だ。  俺もすっぱりと忘れて話を合わせれば……それでいい。  それで、いいんだ。  それが処世術だ。笑顔で自分を殺して周りに合わせる。  それで一切合財何もかもが万事滞りなく上手くいくのだ。  それで……。 (出来るかよ)  無理だ。  俺は覚えている。島田の、姉の事を愚痴るときの、迷惑そうで かつ嬉しそうな、あの顔を。  俺は覚えている。島田の家に遊びに行ったときに食べさせられ たクソまずいメシを。  俺は覚えている。  忘れたほうも、忘れられたほうも――つらいって事を。  だから、そんな簡単になかったことになんて……出来るはずが ないだろう!  だけど、現実問題として……どうすればいいんだ。  みんな忘れてる。知ってる人はいない。  何よりも、島田本人が忘れてしまっている。  そんな状態で俺がいくら何かしたところで、これじゃただのお 節介、大きなお世話って奴になるんだろう。  ……駄目だ。考えても埒が明かない。  行動しなければ。  そういうわけで休み時間。  俺は聞き込みを再開することにした。  ゲームとかではまず情報収集だ。  もっと色々と聞いて、何か手がかりを探すしかない。  ただ、島田の友人たちにはもう聞けないし、それに聞く方法も 色々と考えなければならないだろう。  確実なのは、三年の教室……彼女の同級生に聞くのが一番だ。  俺は、階段を昇り、三年の教室のある階へと向かう。  そして、吾妻先生と会った。 「どうした、時坂。三年の教室に用事か?」 「え、いや……その」  ……。  待てよ……そうだ、先生なら生徒の事を見ていて当然だ。  それに吾妻先生は生徒指導にも熱心だと聞くじゃないか。  ……聞いてみる価値はあるかも。 「先生は、島田の姉を覚えてますか?」 「ん? ああ、それがどうかしたのか?」  ……!  いた。  島田の姉を覚えている人がいた!  俺は事情を話す。 「忘れている、か……ふむ」  先生は考え込み、そして言う。 「こういう事はあまり言いたくないんだが。先生も昔な、親友と 喧嘩して、絶交したことがある。だが、しばらくして仲直りした よ、先生たちはな」 「え……?」  それは。  聞きたかった答えとは違った、しかし容易に想像できる、大人 の回答だった。 「時が解決するだろう、そういう事は。いいか、時坂。友人だか らといって、どこまでも踏み込んでいいというものじゃない。  境界線というものがあるんだ。そこを見極めるのが大切だ」  違う!  そうじゃない、そうじゃないんだ……!  この違和感。世界から隔絶されているというような……  上手くいえない。だけど無視しているとかそんなんじゃない。  無視という空気に漂う、あの悪意が感じられないんだ。  からっぽなんだ。抜け落ちているんだ。 (……)  だけど、上手く言えない。上手く言葉にならない。  先生は、身内の喧嘩だろうから放っておけと。  そんな、判りやすく正しい理屈で、優しく俺を諭してくる。  だけど……。  そう、先生が正しい。俺がやろうとしていることはただの下ら ない自己満足で、島田に頼まれたわけでもなんでもない。  まっとうに考えたら、喧嘩なりあるいは事情なりで……っての が本当に正しいんだろう。  だけど……  だけど……っ!  俺は俯くしか出来ない。本当に俺は無力だと思い知らされる。  夢の中ですら無力で、現実でもこの有様だ。  そうやって俯いていると…… 「だが」  先生が言った。 「まあ、時と場合にもよる。本当に必要な時なら……お前が、お 前自身がそう思うなら。たとえ相手が心から嫌がって拒否しよう と、それでも手を差し伸べ、無理やりにでも首を突っ込む事が必 要な時もある」 「え……?」 「人は不器用だから、本当に困っていても他人にSOSサインを 出せない場合もあるからな、思春期だと尚更だ」 「そういう場合はだな、時坂。  失敗を恐れるな、嫌われる事を恐れるな」 「心の底から、誰かのために、その人のためにと行った事は……  たとえその人からその時は嫌われ疎まれようとも、必ずいつか 判り合える。そういうものなんだ」 「……先生」  吾妻先生は、笑顔だった。  その笑顔は、教師としてではなく……一人の人間としての、吾 妻修三としての顔なんじゃないかと、俺には……そう思えた。 「がむしゃらになれ、時坂。馬鹿になれ、時坂。  少なくとも俺は、偉そうに諦めて動かない優等生より、無謀に 挑戦する落第生の方が好きだ」 「……はい」  それは教師としてどうよ、と思ったりもするが。  だけど……その言葉はすごく心強くて。  俺の芯に、何かを灯した気がする。 「ありがとうございました、先生」 「ああ」  先生は笑顔を返し、そして下の階へと降りていく。  俺は深く息を吐き、そして気合を入れる。  迷う必要なんてない。迷うほど頭もよくないんだ、元々。  俺は……俺のやりたいようにやる。  気合ひとつ入れ、そして顔をあげると―― 「なんだ、また君か」  見知った顔があった。 「……」  入れた気合がいきなり霧散する。想定外にいきなりだし。 「あ、どうも。えーと……その」  しどろもどろになる俺。  そういえば、この人の名前も知らないんだった。  そんな俺の様子を見てか、彼女は言う。 「鶴祁。敷神楽鶴祁だ。君は?」  ……そういえば、俺も名乗ってすらいなかったんだった。 「時坂祥吾です。えと、二年の」 「……時坂祥吾、か。なるほど。いい名前だ」 「……」  いきなり褒められるとは思わなかった。  というか、昨日の今日だから、てっきり嫌われるか、そこまで いかなくても警戒されているものだとばかり思っていた。 「それで三年の教室に何の用事だ?」  敷神楽先輩が聞いてくる。  素直に答えるべきか、どうすべきか…… (……よし)  先生に背中を押されたことを思い出す。  そうだ、俺は俺の記憶を信じよう。先輩本人が違うと言っても ……隠しているだけかもしれない。  もし本当に俺の勘違いってだけならそれでもいい。つい今しが た言われたばかりじゃないか。嫌われる事を恐れるな、と。 「……実は、人を探してるんです」 「ほう、人探しか」 「はい。……いなくなったんです、友人の姉が。そして……変な 事いいますけど。友人もその事覚えてなくて……」  俺は事情をかいつまんで話した。 「……ふむ、不思議だな」  先輩は、それを馬鹿にする事なく、あごに指をあてて考える。 「その友人は本当に覚えていないのか?」 「はい、あり得ないと思うのに、まったく……」 「ふむ」  先輩はしばし熟考した後、顔を上げる。 「これは思った以上に深刻な問題だな」 「え……」 「秘密結社だ」 「……はい?」 「記憶を消して人を拉致する。これは思ったより大変なことだ。 記憶を消すには催眠術、が妥当だ。だがこれだけの広範囲に催眠 をかけるなら、一人一人拉致していっては埒があかないだろう」 「ゆえに広域範囲に影響を及ぼす音波兵器による催眠誘導波、が 妥当だと思うがどうだろうか?」  ……。  どうだろうか、と言われても……。  秘密結社? 音波兵器による催眠誘導波……? 「ええと、先輩。それ本気ですか」 「無論だ」  自信満々に先輩は言う。 「……そう、最近読んだ大衆小説(ライトノベル)に書いてあった」 「……」 「なんだその顔は。馬鹿にしたものではないぞ。あらゆるヒント は周囲から得るものだ。特に本は基本だ」 「いや、真面目にやってくださいよ!」  俺は思わず怒鳴る。 「私は真面目だ。荒唐無稽な出来事が起きたのなら、解決の糸口 も荒唐無稽であるべきではないか?」 「確かどこかの学者が、この世に起きる事は全てが人の想像力で 起き得るものだとか言っていたと記憶している。  なら創作物からヒントを得るのも当然ではないだろうか」 「本はいいぞ、様々な知識が手に入る。君は知っているか?  かつて世界を震撼させた事件の幾つかは、某国やあるいは政府 の自作自演であり、秘密兵器の実験だという話だ。そう大衆小説 に書いてあった。うん、やはり俄然真実味を帯びてきたな」 「……」 「きっと彼女は何らかの大きな事件に巻き込まれたのだろう。そ う、国家的陰謀という奴だ。きっとこの学園すらも巻き込んだ」 「故に慎重に対処しないといけないだろう。いいか祥吾君。君は 動きすぎている。もっと慎重に、静かに、隠密的に事にあたるべ きだ。もし私が国家諜報員だったら今頃君は危なかった」  ……。  もしかして、いやもしかしなくてもこの人……ちょっと変?  頼もしくはあるが、ベクトルが別の方向に向いてる気がする。 「いいか、この事はもう誰にも喋るな。あとは私に任せておいて くれ、悪いようにはしない」  悪いようにしかならない気がする。  だが先輩もただ面白がっているとかそういうのではなく、これ はこれで純然たる善意なのだろうとはわかる。  ……まさに、小さな親切大きなお世話、という奴だろうか……  島田から見たら俺もこんなかんじなのかなあ。  そう思うとちょっと気が滅入ってきた。 「……はい」  ここは素直に頷いておく。  いくらちょっとズレているとはいえ、先輩がこうして力になる と言ってくれるのは、素直にうれしい。  先日が先日だっただけに、だ。  だけど……。 (やっばり……それは聞けない)  任せておくことは出来ない。先輩が信用できないとかそういう 話じゃなくて。俺がやろうと決めた事だから。  先輩に頷いた手前、俺はそのまま素直に戻る事にした。  動き回ってたら先輩に見つかって、色々と言われそうだし。  何か起きたら教えて欲しい、と先輩は俺に携帯電話の番号を教 えてくれた。  ……。  母と妹以外の、初めての女性の携帯番号を知った気がする。  いや、男友達とか当然普通にいるけど。でもなんというか、女 の子の携帯電話番号を登録するというのは……。あ、いや、別に 浮かれていたりしていない。  そういう事じゃないわけだし。あくまでも緊急連絡用だ。  気をしっかりと引き締めろ、俺。  気を引き締める。  そして学校が終わり、放課後。俺は帰宅して……。 「一観、俺ちょっと出てくるから。戸締りしっかりしとけよ」 「あ、うん。何処いくの?」  素直に言うわけにはいかないので、適当にごまかす事にする。 「ああ、友達とカラオケ。無理やりつかまってさ」 「ふーん」 「気をつけてよ? 最近物騒らしいし」 「物騒?」 「うん。クラスで聞いたんだけど、化け物に襲われて行方不明 になる人がいるとか。まあ噂なんだけどね」 「……」  化け物。か。 「一観。俺も気をつけるから、お前も本当に気をつけろよ」 「な、なによお兄ちゃん。真面目な顔で」 「真面目なんだよ」  昨日の夢が俺の頭によぎる。  磔にされ殺されていた一観の姿、その不吉すぎる姿が。 「……頼むから」 「……うん、わかった」  素直に頷く一観。 「そか。じゃあ俺出てくるから。じゃあ、お休み」 「うん、おやすみなさい、お兄ちゃん」 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  俺は夜の街を徘徊する。  ……といっても、まだそんなに遅い時間じゃないし徘徊という ようなあれでもないんだが。  しかし……化け物の噂、か。  女子って噂とか好きだからなあ。そういう噂があるのは……も しかして、あれだろうか。  時計仕掛けの獣。  あれは多分夢じゃない。  島田の姉の不可思議な失踪……そんな常識外の出来事が起きた んだ。ならあれも……不思議と繋がっている気がする。  理屈じゃないし確信もないが、それでも。  何かが繋がっているような…… 正解です  突如。  視界が暗転し、空転し、切り替わった。  白昼夢に陥るような、そんな感覚。  そして――俺は、発条仕掛けの森に居た。 「な――!?」  ここは夢の中の世界だ。昨日の夢であいつがそう言った。  そう、あいつが―― 『夢とは。寝ている時のみ見るものではありませんから。  そう、つい今しがたあなた自身が思い描いた単語…… 白昼夢≠烽ワた夢でしょう?』 「……今は夜だ」  まるで俺の考えに呼び出されて現れたかのように、そこに少女 は立っていた。  悪魔を名乗る少女。  少女の姿をした悪魔。  ……メフィストフェレス。 『昼に見る夢、というより、起きている時に見る夢、ですから。  ですがそうですね、夢と言ったけど正しくは少し違うかもしれ ません。私とあなたの共有する、精神世界――といった方が正し いかもしれませんね』  精神世界、か。 「それはわかった」  あまりよくわからんが、まあだいたいは。 「寝てる時ならともかく、しっかり起きて行動中にこれか……」 『はい』 「俺の頭がおかしくなったんじゃないとすれば、あの夢もまた現 実にあった事、か……」 『夢ですよ。現実にあった事、ではなくて実際に見た夢、です』 「違わないだろ。それともお前はただの夢で俺の妄想なのか」 『私は実際にいます。だけど現実に干渉できません。今は=x  ……。  どういうことだ? 全くわからん。 『悪魔は人に望まれ呼び出され、初めて力を行使出切るのです。  今の私は未だ人の心の海にあるも同然。媒介を通じてあなたと コンタクトは取れていますが……何も出来ないんです』 「つまり、無害って事か」 『有体に言えば、そうですね』  ……少しだけ、安心した。  悪魔とか言うから、こいつが島田の姉を……とかも一瞬よぎっ たりしたけど。それはなさそうだ。 「……で、何だよ」  というか、それならなんでいきなり話しかけてきた?  俺はこんな所で白昼夢に浸っている時間はないんだが。 『契約手続きのお願いを』 「いきなりリアリティたっぷりだな! なんだ、そのハンコお願 いします、みたいな感じは」 『似たようなものですから。  ……いきなり事実を突きつけられて混乱する気持ちは、わから なくもありません。だけど、このままでは……』 「妹が、死ぬって?」 『はい』  あっさりといいやがる、こいつは。  俺は、その見透かしたような態度が気に入らない。  あり得ない。あり得ないんだよ、そんな事は。  第一…… 「お前、俺が契約とやらをしなきゃ、何も出来ないんだよな?」 『……そうですね』 「だったら俺の答えはノーだ。契約しない限り、お前は何も出来 ない」   何を企んでいるか知らないけど。  他人の命を盾に脅迫するような奴の考えてることなんて、ロク なもんじゃないだろう。 『……』  その俺の答えに、メフィストフェレスは悲しげに目を伏せる。  ……く、卑怯な。  女の子の格好でそんな表情されたら俺の鋼の決意が揺らぐ。  これが悪魔の常套手段って奴か。美少女の姿で情に訴える。  引っかからないぞ、メフィストフェレス。 「そ、そんなツラするなよ、メフィ」  引っかかりはしないが、それでもついつい慰めの言葉みたいな 声をかけてしまう俺だった。 『……メフィ?』  鸚鵡返しに反応する。 「ああ、いや、長いだろ名前」  噛みそうで困るんだ。悪魔と対峙する時に相手の名前を噛みま したとかかっこつかないし、ここは適当に省略させてもらう。 『メフィ……です、か』  ……。  いやなに心なし嬉しそうに反復してんのよこいつ。 『……そんな風に呼ばれたの、初めてです』 「……」  待て。  待て待て待て、なんだこの雰囲気。  何を嬉しそうにしている。  何を頬を赤らめている。  ……こいつ、悪魔、だよな?  俺の知る限り――悪魔ってのは人を騙し、裏切り、利用し、傷 つける悪性の具現であり権化のはずだ。  人類の敵。神の敵。絶対悪の怪物。  だが、俺の夢、いや精神世界だというここに現れてるこいつは 一体何だ?   とてもそういうモノには見えない。  俺の慣れ親しんだ、悪意というモノが感じられない。  こいつは……邪悪では、ない。 「お前……何なんだ?」  危険なのは変わりないはずだ。自称悪魔だし、一度夢に出てき ただけではなくこうやって白昼夢の形で俺に干渉し、妹が死ぬと 脅しをかけて俺に何かをさせようとしている。  真っ当に考えて、危険すぎる。このまま無視を決めていけばい い、そのはずだ。何かの本で読んだことがある。悪霊への対処は とにかく明るく笑う事を心がけ、そして無視することだと。  悪霊、魔物の類にコンタクトをとろうとするとそれだけで引き ずられる。縋り憑かれる。奴らは人間を求めているから、だと。  だから関わらないように努めればそれでいい――と。  だけど。  俺は関わろうとしている。  何故だ。  この自称悪魔のメフィが、島田の姉の失踪へのヒントになるか もしれないから……か?  いや、違う。そこまで俺は考えられない。  ……単純に、ただ、気になっただけか。  彼女の瞳の奥に見える、微かな翳りが気にかかって。  そう、あれは……昔日の俺に少し似ていて。  孤独。  その色が、どうしょうもなく俺の心を騒ぎ立てる。  確信する。  この悪魔は、どうしょうもなく孤独なのだと。 『私は悪魔。正しくは……その模造品、紛い物、贋作ですが』 「にせ……もの?」 『はい。私はとある目的によって造られ……危ないっ!』  突如、メフィが叫ぶ。  刹那、俺の意識は現実へと戻る。  そして――  その直後に、異変は起きた。  空気が軋む。  音が消える。  世界が凍える。  これは――覚えている。知っている。  あの時、俺は一度、これに遭遇した!  時間が、止まっている、この世界に。 「!」  一度体験したからだろうか、その凶の気配を俺は感じ、全力で 身を翻す。  その暴力は上から。  巨体が降って来る。どうやって飛び跳ねたのか、その重量感が とんでもない鋼の巨体が、俺の居た場所に落ちてきて、アスファ ルトを粉砕する。  それは。  あれは。 「夢の……!」  いや……違う。  やはり確信する。あれは、夢なんかじゃなかった!  ただ夢だと思い込んでいただけだ。  そしてもう疑いようがない。  これは……現実!    キリキリ。                       ガシャガシャ。          チクタク。  カチコチ。         キリキリ。 (時計仕掛けの獣!)  細部は違うのかもしれないが、俺には判別がつかない。  そしてその破壊的な悪意は、あの時のと同じだ。  もう一体居たなんて……!  俺は全力で逃げ出す。  あの時と同じなら――やはりどうやったって勝てない。  逃げの一手しかない。 逃げられません  意識が切り替わることは無い。だが俺の脳裏に声が響く。 あれは人の足で逃げ切れるものじゃありません! 「ならどうしろってんだ!」  走る。  俺の後ろで壁か何かが砕かれた音がするが振り向いたら即デッ ドエンドだと判りきっているので振り向かない。  ただただ勘と勢いに任せてがむしゃらに走る。 契約を  メフィは言う。 私と契約してください。そうすれば――戦う力が……!  メフィは言ってくる。  力をくれてやる、と。戦う力。抗う力を。  だが……。 「だめだ……!」  こいつは自分を悪魔だといった。  悪魔の甘言に引っかかるわけにはいかない。  悪魔は人を騙す――それが常套だ!  それに、騙していないというのなら。  こいつは俺に、人を殺させるつもりだ――! 「それは出来ない……!」 ならこのまま死ぬのを、良しとするのですか?  そんなわけはない。死にたくないし死ねない。  だからといって……悪魔の甘言に乗るわけにもいかない。  だが、手はある。  俺は走りながら携帯電話を取り出し、番号を呼び出す。  そう、敷神楽鶴祁先輩の電話番号だ。  もう完璧にあれが夢ではないと判った。それならば、きっと鶴 祁先輩ならあの時のように、この化け物に対処できる。  他人に頼りきりで情けないことこの上ないけどそうも言っては いられない!  しばらくして、電話が繋がる。 『はい、もしもし』 「敷神楽先輩ですか!? 俺です、時坂祥吾っ」 『ああ、君か。どうした?』 「っ、こないだの……化け物にっ、また襲われて……っ!」 『――』  電話の向こうで沈黙が過ぎる。 『今、何処だ』 「えっと……!」  俺は周囲を見回し、目印になりそうなものを教える。 『わかった。いいか、とにかく走れ、逃げ続けるんだ。直ぐに、 私たちが行く』  そして電話は切れる。  ……よし!  これでひとまずの対処は完璧だ。  あとはとにかく逃げ続ける。  前の時の、恐怖に駆られてただ逃げ回るだけのあの時とは違う ……戦うための逃走だ。勝つための逃走だ!  道を曲がったその時――激しい衝撃。 「うわっ!」  体勢を崩す。  人とぶつかったのか、声がする。その人は―― 「……え?」  予想外の人物と遭遇した。 「時坂……! 危ないじゃないか、道を走ったら事故の元に」  吾妻先生……!?  なんでここに!  拙い。  後ろから時計仕掛けの獣が追ってくる。  そして、そこには新しい獲物がまた一体。  御馳走がふたつ。  拙い、追いつかれる。  走れ。逃げろ。そうじゃなきゃ死ぬ。確実に死ぬ。  見捨てて逃げないと、死ぬ! (――そんなこと)  一人だけ逃げて、助かる。  先生を、見捨てて。 (出来るわけねぇだろが!)  どっちも生き残る!  二人で全力で走ればいい、ただそれだけだ! 「先生! 走って! 逃げて!!」 「おい、時坂――?」 「いいから!」  俺は叫ぶ。  だが後ろからは凶暴な気配。  間に合わない。  間に合わない!  なら――!  俺はとっさに、木の棒を拾い上げる。  倒せるなんて思わない。だが受け流してせめて隙を作り、そし て二人で―― (……あ)  駄目だ。実感する。直感する。確信する。  タイミングが致命的にズレた。  間に合わない。  時計仕掛けの獣の腕は、俺の体を貫くだろう。  間に合わない。  時を止めでもしない限り――間に合わない!  そして――  果たして、確かに俺は間に合わなかった。  だが――  金属がひしゃげ、くだける音が響く。  そして、地面に落ちる音。  何が――あった?  俺の目の前で、いつもどおりの変わらぬ表情で立っている、そ の姿は何だ。  その生身の腕で鋼の兇器を受け止め、ヘシ折った今の動きは一 体何なんだ? 「蛮勇、無謀は勇気とは言えないぞ、時坂」  そういえば。  何故先生は、ここに居た。  時の止まったこの結界の中に。 「確かに俺は馬鹿になれと言ったが、馬鹿すぎるのも問題だ」  そうだ。確か先輩があの時言っていた。  時計仕掛けの獣によって時を止められた世界で動けるのは――  獲物として狙われた、俺のような人間か、  或いは―― 「これでは及第点をやれんな、落第だ。  だが――」  ――それを、倒す力を持つ者のみだ、と。 「俺は、それでも嫌いじゃない。さあ、補習の時間だ、時坂」  吾妻修三先生は、時計仕掛けの獣を前に、まるで学校にいるか のように、平然と言った。 『GOOOREEEEAAAAAAaaaa!!』  時計仕掛けの獣が吼える。  無事な脚を先生に向かって振り下ろす。  巨大な鋼。無骨な兇器。鈍く輝く杭。あれを人間が食らえばひ とたまりも無い事など、火を見るより明らかだ。  先日、俺を襲った奴よりも強いだろう。トマトを地面に叩きつ けたかのように爆ぜる、そんな光景が俺の脳裏に浮かぶ。  だが――その杭は地面を穿つ。  先生は一歩たりとも動いてない。  ただ――その手で、払いのけただけだ。 「相手は確かに強い。だが所詮は獣。機械で出来た怪物ではある が――それでも猪突猛進する猪と変わらない」  先生は静かに、俺に向かって言う。 「そういう時はな、相手の力をそのまま利用するんだ」  ただ払い、力の流れをずらした。  それだけで、敵の巨大な杭は地面を突き刺し――そして、外れ ない。 「威力とはすなわち、力と速度と重量だ。ああ、こいつの攻撃は なるほど強力すぎる。だが、故に外してしまえば、こうなる」 「さて、打ち下ろす一撃には重量と速度が加わったが……突き刺 さったこの杭を引き抜くには、やはり同等、ないしそれに近いパ ワーが必要だ。しかし……わかるな、時坂?」 「あ……はい」  単純な足し算、力+速度+重量での攻撃。  だが引き抜くためには、重量も速度もそこには無く、単純な力 のみで行わなければならない。  時間をかけることで引き抜くことは当然可能だろう。  それだけのパワーがある。  だが、それでも。  その時間こそが、こちらにとっての圧倒的なアドバンテージと なる。 「外してしまったら次に転じることが出来ない攻撃など、まさに 愚の骨頂、獣の所業だ。いや、獣でももう少しましだろうな」 「さて時坂、だがそれでも獣というものはしぶとい。動きを縫っ た程度では倒せない。どうする? 答えは簡単だ。心臓を止めれ ばいい」  先生は、先ほどねじ切った敵の腕を拾い上げる。  長く鋭い鋼の爪だ。 「敵の鋼の皮膚は硬い。普通に突き刺しても阻まれる。だが―― そういう時はな、しっかりと見て、考えるんだ。  敵の心臓は何処だ。急所は何処だ。そこに至る道程は何処だ。  考えて見極めて、そして――」  先生は、腕を振るう。  まるでハンマーのように。 「迷わず、叩き込め」   装甲と装甲の合間。  機械仕掛けの獣、すなわち動くロボットとしての構造上、どう あっても発生する、隙間部分。  そこを一直線に縫い、その一撃はおそらく、敵の心臓部を貫い たのだろう。  動きが停止する。  不快な鋼の鼓動が止まり、ダイオードの目から光が消える。 「…………」  なんというか、声が出ない。  先生は平然としたまま、俺のところまで歩いて来て、そして手 を差し伸べてくる。 「立てるか、時坂」 「え……あ、はい」 「しかし、鶴祁から聞いてはいたが――」 「え?」 「二度連続で狙われる、か。お前も間が悪いな」  うわあ、先生からも間が悪いって言われたし。  ……ていうか、今先輩の名前を……? 「先生、敷神楽先輩とは……」 「ふむ。まあこの状況だ、もう隠しても仕方ないか。  彼女は私の教え子だ。ああ、普通の学校の教師と生徒、という 意味ではなく、師弟という事だ。退魔の道のな」 「……なるほど」  合点がいく。 「先ほど、鶴祁から連絡があってね。それでお前を探していた、 と言うわけだ。間に合ってよかった」 「……ありがとうございます、先生」  俺は頭を下げる。 「礼には及ばん。生徒を助けるのは教師として当然だ。それに」 「……それに?」 「お前を助けに来ただけではないからな。言ってみれば、お前は ついでだ。見ろ」  笑顔で俺をついで呼ばわりしながら、先生は時計仕掛けの獣の 残骸を視線で指す。 「……!」  俺は驚く。  その崩れた残骸が消えていくのは、先日と同じだ。  だが、それと入れ替わるように、虚空から実体化していく光。  それが人の姿を取っていく―― 「奴らは働き蟻や蜜蜂のようなものだ。人を襲い、時間を奪う。  だが、奴らの犠牲になった人間は、すぐに死ぬ訳ではない」  だが先生の言葉も俺の耳には入らない。  そこに居たのは――島田の姉だ。 「奴らの主人に捧げられる前に。あるいは、奴らに食い尽くされ る前に。時計仕掛けの獣を破壊すれば――開放される。  救うことが出来るんだ」  先生は。  俺が昼間に言った、島田の姉がいなくなったという言葉を受け て――探してくれていた?  俺は先生を見る。  先生は俺の視線に気づき、笑う。 「よかったな、時坂」 「……はい」  よかった。本当によかった。 「……一足遅かったようですね。いえ、先生が早かった、という べきでしょうか。流石です」  その時、俺の背後から声がかかる。  この声は……。 「先輩……」 「遅くなって済まなかった、祥吾くん」 「あ、いえそんな」  先輩が頭を下げるが、謝ってもらう理由なんてない。  先輩が先生に連絡を入れてくれなかったら、そもそも俺はとっ くに殺されていたんだから。  先輩にも、感謝してもし足りない。これで命を救われたのは、 二度目なんだから。  先輩は微笑むと、先生に言う。 「あれが、彼女が祥吾くんの友人のお姉さんですか」 「ああ」 「ほとんど食われてはいないようですね、彼女の時間も。これな らば修正がかかり元に戻るでしょう」 「そうだな」  時間……?  そういえば、さっき先生もそういう事を言っていた。 「あの」  俺は質問する。 「時間を食うとか奪うとかって……どういう事ですか?」  その質問に二人は顔を見合わせる。 「……さて、どう答えたものか。ここまで関わってしまったなら ば、素直に全て教えたほうがいいだろうな」 「ですね。彼ならば、話さなければさらに自分から首を突っ込ん できて、その結果さらに大変な事態を引き起こしかねない」  ……なんか色々いわれている気がする。 「私たちは、簡単に言えば大衆小説の学園異能伝奇バトルっぽい キャラクターたちだ」  ……。  判りやすっ! この上なく判りやすい! 「……?」  先生はその表現をよく判ってはいないようだったが。 「魔に抗する術と力を持ち、それを行使して魔を討つ。普通の人 々がフィクションだと思っているだけで、人類の歴史の裏で常に 脈々と行われていた営みだよ」 「そしてその存在は一般には秘密にされている……ここら辺の設 定もまあよくある大衆小説に準拠している。だから先日君を助け た時も、夢だと思ってもらったわけだ。徒労だったようだが」 「じゃあ先輩が昼間言ってたことは、あえて無茶な事を言って俺 を冷静にさせるために……」 「ああ」  先輩は思い出したように言う。 「あれはただの本心だ」 「ぅおいっ!?」  侮れねぇ! うすうす気づいてたけどこの人天然だ! 「無論、時計仕掛けの獣に襲われたか、という懸念もあった。だ が同時に国家的陰謀論の可能性も捨てきれない。そして君に判り やすく伝わるのは後者だと判断した」  いや捨てろよその可能性。 「じゃあ、あの怪物は一体……」 「あれか。あれは時計仕掛けの獣だ。  人を襲い、人の時間を奪う。襲われて犠牲になった人間は、時 間軸から隔絶され、人々から、世界から忘れられてしまう」 「……それで」 「ああ。彼女の弟……君の友人が姉の事を忘れたのもその為だ。 だが安心していい、今頃は思い出しているだろう。違和感を覚え る事も無く、忘れていた事を忘れて」 「……いや、ちょっとまってくれ」  ふと浮かんだ違和感を、俺は疑問にして口にする。 「なんで、俺は……覚えていたんだ?」 「ふむ」 「君は一度、時計仕掛けの獣に襲われて、助かった。そこで何ら かの……言うなれば縁のようなものが生まれたのかもしれない」 「そうだな、いままで霊感がなかった人間が、一度いわく付物件 で心霊現象に遭遇したら、以後頻繁に幽霊に会うようになるのと 似たようなものだ」  判りやすいたとえだが、どうにも緊迫感に欠けるなあ。 「彼女は運がいい。君が彼女を覚えていた。そして君は彼女を助 けるために動き、そして私達がその事を知った」 「ああ、時坂。彼女は、お前が助けたんだ」 「先輩。先生……」  そういわれるとこそばゆい。  でも……そうか。俺でも、こんな俺でも……間に合ったんだ。  間に合ったんだな。俺は。 「しかしこれで五体目ですね。そろそろ打ち止めのはずですが」 「そうだな鶴祁。しかし楽観は出来ん。本体がいる可能性も」  二人は物騒なことを話している。  俺はつい口を挟んだ。 「どういうことなんですか?」 「ああ……」  先輩と先生は振り向く。 「先日と今日の君を襲った二体。あれで全部ではなかったんだ」 「俺たちは、他にも三体ほどあれを倒している」 「……そんなに?」  あれが全部で五体いて……しかも、まだいるかもしれないって そういうのか? 「ああ。だがそう悲観もすることはないだろう。すでに五体だ。  俺達が前に確認したのも五体。これで一応は終わった。それに 本体がいるなら、そろそろ痺れを切らしてくる頃だろうしな」 「本体?」 「ああ。本体がいるのではないかと私達は睨んでいるよ。あれを 使わして人を襲わせ、時間を集めている何か……」 「おそらくは、時計仕掛けの悪魔」 「悪魔……?」 「ああ。先日、私が使役したのと同類だ。あの時計仕掛けの獣は それが生み出している可能性が高い」 「生み出して……?」 「そもそも時計仕掛けの獣は、日本風にいえば式神のようなもの なんだ。使い魔、というべきだろうか」 「さっきも言ったように、蜜蜂や働き蟻のようなものだ」  蜜蜂や働き蟻。  女王に餌を捧げる奴隷、兵隊。  ……時間を。奪う。集める。  捧げる……。 (……)  今、何か。  一瞬、何かが頭をよぎつたような気がしたが、今の俺にはそこ まで考えを巡らせる事は出来なかった。 「先輩の、その……それも、そういうのを生み出せるのか?」 「いいや」  先輩はかぶりを振る。 「あれを生み出せる固体があると聞いたが、私のアールマティに はそれは出来ない。それに……」 「それに?」 「時計仕掛けの悪魔しかアレを作れないという訳ではない。  むしろ逆だ。時計仕掛けの悪魔にも作れる、と言った方が正し いかもしれないな」 「あれはアールマティ達……時計仕掛けの天使/悪魔を生み出す 計画の副産物と聞いている」 「かつて、人に仇なす化け物・怪異たちに対抗するために、魔術 や錬金術、科学などを駆使して対魔兵装を作り出す計画が持ち上 がったと聞いている」 「永劫機計画(プロジェクト・アイオニオン)」 「怪異を討つ為の人造の天使と悪魔。鋼の体を持つ、模造品だ」  天使と悪魔の模造……。  それは、あの発条仕掛けの森で、悪魔を名乗る少女、メフィが 言った言葉じゃなかったか。  自分は模造品だ、と。 「懐中時計を核として、人と契約し、巨大な力を操る人造の魔物 ――だが、欠陥が多かった。そしてそれは、十二体の完成品を生 みだした所で、計画は凍結し破棄されたと言われている」 「欠陥……?」 「ああ。時計仕掛けの獣を見て判らないか?  そう、時計仕掛けの天使、悪魔もまた……人の時間をその動力 として稼動するのだ」 「……!」 「使い手の……操奏者の時間を食らい、力とする。使えば使う程 その使い手の残り時間は費やされる。有体に言うと、寿命が短く なる」 「な……」  先輩は、そんなものを使っているのか!? 「案ずるな。抜け道はいくつかある。そう、燃費は悪いが、倒し た敵の時間を永劫機への生贄へと捧げるという手段もある。  ……最も、それは生物である事が条件だが」  生物である事が条件。  ……つまり、あの時計仕掛けの獣を倒しても、その抜け道には ならない、ということか……?  じゃあ、あの晩……先輩は俺の為に自分の時間を……。  それに、今回だって、先生が来なければ……。  先輩は、俺の為に自分の寿命を……。 「気にするな。これは私の、私たちの責務であり、そして自分が 選んだ道なんだ。刃持てぬ者、抗う術持たぬ者たちの為に、我が 心身を刃と化し敵を討ち、人々を守る」 「誰に強制された訳でもない、自分が選んだ道だ」 「だから君がそう気に病むことは無いぞ。  ……君はいい子だな、時坂祥吾くん。私は君を守れた事を誇り に思うよ。誇らせてくれ」 「そ、そんな……事、ないです」  恥ずかしい。  自分の身勝手で……俺は先輩に頼り、大きな代償を払わせる所 だったんだ。そして先輩はそんな俺を責めようともしない。  こういう人だから、戦えるんだろうな、きっと。 「さて、他にも幾つかある」  先生が言う。 「人造の天使、悪魔であるから……そこには人格が存在する。機 械のナビゲーションシステムやAIどこではない、確固とした人 格、いや霊格とでも言うべきか」 「人造の機械人形でありながら、彼女たちは生きているのだ」 「自らの意思を持つ武器など、恐ろしくて実用に使えない……と いう判断だろうな。その点、鶴祁は上手くやっているようだが」 「ええ。彼女は私にとって大切な相棒です」 「だが上はそうは判断しなかった。兵器にとって必要なのはあく までも安全に運用できる仕様であり、使い手に代償とリスクを背 負わせるような欠陥品を正式に量産させる訳にはいかない……ゆ えに、計画は凍結された」 「それが表向きだ」 「表向き……?」 「実は俺もよくは知らないが、いろいろと説はある。  そのひとつが……計画の中途で生み出された、時計仕掛けの獣 の暴走」 「それによって危険性が指摘され、中止に追い込まれた……そし てその獣達は世に解き放たれた。12体の永劫機、それの媒介た る懐中時計も……また同じく世に解き放たれた」 「という、説がある。それが何処まで事実かは知らないが……そ れでも、お前が教われたように、それは世に存在している」 「……」 「噂では自己増殖機能までついているらしい。鉄屑、ガラクタか ら自己を複製して増殖する……厄介だな」 「だから私たちは虱潰しに探して倒していくしかない。大本を てれば一番なのだがね」 「そう。だから俺たちは、時計仕掛けの悪魔を探している。  かつて計画凍結された時に世に散らばった12の永劫機を。  ……時坂、お前に心当たりはないか?」 「え? 俺……?」 「ああ。二度もお前は時計仕掛けの獣に襲われた。なら、接点が あるのではないか、とふと思ったんだが」  それは……。  俺の脳裏にフラッシュバックする光景。  発条仕掛けの森。  そこに住む、悪魔の模造品を名乗る少女。  メフィストフェレス。 「……いえ、心当たりないです」  俺は。  そう、言っていた。  心当たりはある。確かにある。だが……それを言うのは、なぜ か躊躇われた。 「そう、か。すまんな、変な事を聞いて」 「いえ、役に立てなくてすみません。でも何かあったら、俺何で も手伝います」 「そうだな。その時は頼むとしようか」 「はい」 「じゃあ、俺は彼女を送ってくるよ」  そう言って先生は、島田の姉を背負う。  こういう時、教師という肩書きはものすごく便利だな。  俺と先輩は、は先生たちの姿が遠くなるまで見送る。 「……君も大変だったな」 「いえ、先輩たちほどじゃ」 「では言い直そう。お互い大変だな」 「……ですね」 「では私も帰るが……送らなくていいか?」 「そこまで面倒かけられません。っていうか、女の人に送っても らうってのも情けないっていうか」 「そうか」  先輩は笑う。 「いかんな、私は真面目すぎて心配りが足りない。先生からもよ く言われるよ」 「吾妻先生は……時々すごく不真面目というか軽いというかそん な風になるからなあ……時々よく判らなくなる」 「確かに」  俺たちは笑いあう。 「……では、もう心配もなさそうだな。また明後日にでも、学校 で会おう、祥吾くん」 「はい、先輩」  そして俺は、先輩の後姿を見送る。  その姿が消えた後、俺は家路へと急いだ。  かなり遅くなってしまった。よく見たら、もう日付は変わって いる。家の明かりもついてない、もう一観は寝ているだろう。  俺は起こさないように鍵を開け、家に入る。  そのまま自室へとこっそりと行き、そしてベッドに身を投げ出 す。全身を心地よい疲労感が包む。 「――ふぅ」  ため息ひとつ。本当に疲れた。  疲れて……。  ふと気がつけば、再び俺の意識は――発条仕掛けの森へとやっ てきていた。 (……またか)  これで三度目。いい加減慣れてきた。 「今度は何の用だ?」  俺の言葉に応え、彼女が現れる。 『……』 「どうした。黙ってちゃわからないけど」 『何故、ですか?』  メフィは、そんな疑問を俺に投げかけてきた。 「何故、って」 『何故……あの二人に、私の事を話さなかったのですか?』 「……」  そのことか。 『私はあなたに、人殺しを強要しようとしている、悪魔ですよ』  ……自覚あったのか。 「そうだな、全くもってそのとおりだ」 『なら……』 「だけど、お前は人を襲ってない」 『え……?』 「最初は疑った。島田の姉とかを襲ったのはお前じゃないか、 ってな。妹の命がやばいってのも、そうやって脅して俺をいい様 に使おうとしてて、その為にお前が妹を狙うんじゃないかって」 『……』 「でも違ってた。少なくとも俺の知る限りお前は何もしてない。 ていうか、契約しない限り何も出来ないんだっけ」 『……ですが』 「あれも先生たちが倒したし、人を襲って時間を奪っていた時計 仕掛けの獣はいなくなった。  終わったんだよ。そう、これで――解決だ」  だから。  一観が死ぬなんてあり得ないんだ。 「お前を好き勝手させる訳にはいかないから契約はしない。  だけど、先輩たちに渡す事もしないよ。契約はしてやれないが 話し相手ぐらいにはなってやるさ」 『……』  これで全て解決だ。  少なくとも、あとはあの二人に任せておけばいい。  俺のやれる事は終わった。  終わったんだ、この非日常の事件は。  目を覚ます。  今日は日曜だ。いい天気だし、いい気分だ。  背伸びをひとつ。  清々しい朝というやつだ。 「……」  時計を見たら昼だった。  午後二時。  ……寝すぎた。なんか体の節々が痛い。 「さて、と」  昨晩のごたごたで、腹が減っている。  俺はリビングへと降りる。 「……?」  妙だ。  静かすぎる……。 「一観? おーい、一観ー?」  声をかけるが、返答は無い。  まだ寝ているのか……? まさか俺じゃあるまいし。  いや、昼寝か?  俺は一観の部屋まで行って、ノックする。 「おい、一観。寝てるのか? 開けるぞ?」  ドアを開ける。  ……いない。 「……どこに」  部屋にも居ない。風呂にも居ない。トイレにもいない。リビン グにもいない。台所にも居ない。どこにもいない。  いや……違う。  おかしい。  空気が感じられない、においが感じられない。  ぽっかりと、一観のいた痕跡だけが消えているような……。 (馬鹿な)  違う。そんなはずはない。  一観は運動部だ。  きっと学校に、部活に行っているんだろう。  そうに違いない。  俺は冷蔵庫からそのまま食えるハムとバナナを取り出し、急い で着替え、食いながら学校へと走った。  学校へ到着。  運動場へと走る。だが、一観の姿はどこにも無い。  何度か携帯に電話を入れたがかからない。部活中ならそれも仕 方ないだろう。しかし運動場に姿が見えないのに、繋がらないの もおかしい。どういうことだ……?  俺は部員に聞いてみることにする。  同じ部活の人間なら知っているだろう。どこにいるか。  今どこにいるか、それを聞きたいんだ、俺は。  だが。 「時坂一観……? 誰ですか、それ」  そう答えたのは。  妹の、友人だった。 (――あ)  これは。  あの時の。 「何言ってんだよ時坂。姉? いねーってそんなの」 (ああ……)  島田の時と、同じ。  忘れられている。  周囲から――世界から、忘れられて。  ぽっかりと。  そこには空洞があって。  妹の姿は無い。存在も無い。  喪われて―――― 「うわああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああ!!!!!!」  俺は絶叫して走る。  走りながら絶叫する。  嘘だ。嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!! 「ぐっ――!」  脚をもつれさせて無様に転ぶ。  転んだ拍子にサイフが零れ落ち、そして―― 「――――あ」  そして、気づく。  サイフの定期入れの部分には、写真がいれてある。  俺と一観でとった写真。  その写真から――妹の姿が消えている。 「あ…………」  それが現実。それが事実。  決定的なまでに残酷な、真実だった。  妹が。  一観が。  世界から――消えていた。  そう。  時坂祥吾は間が悪い。  今回もまた「間に合わなかった」のだ。  走った。  走った。  町中を駆けずり回り痕跡を探した。  どこかにいて、俺の勘違いじゃないか、そう信じて――  ひたすらに走った。何時間も。  だが……一観はどこにも、いなかった。  「冗談、よしてくれよ……」  壁によりかかり、俺は崩れ落ちる。 「嘘だ」  違う、嘘じゃない。  自分を騙せない嘘など、ついても滑稽なだけだ。 「ひと、み……」  馬鹿か……。  馬鹿か俺は!  何をしていた……何を!  わかっている。  島田の姉が消えた。それを俺は追った。  何故だ?  決まっている。  俺は――楽しんでいた! 不可思議な事件に興味を持ち、興奮 し、それを追うことで自分の好奇心を、欲求を満たしていた!  下らない子供じみた英雄願望を満たすために。非日常に浸り、 楽しんでいたんだ。  自分を漫画かラノベの主人公とでも勘違いして――  妹を、放置して。  いや……見捨てて!  馬鹿が!  馬鹿が!  馬鹿が!!  また間に合わなかった。当たり前だ、本当に大切なものを放置 しておいて、間に合うもクソもない!  間が悪いにもほどがある。ここまで来たら呪いを通り越してた だの喜劇だ。クソッタレな三文芝居だ。  メフィの忠告を聞いていればよかった。あの悪魔は何度も俺に 言っていたじゃないか、妹が危ないと!  だが俺は目の前の魅力的な事件に酔い、怪物との戦いに酔い、 大切な、本当に大切なものを――見捨ててしまった。  憎い。  俺自身がたまらなく憎い。  殺してやりたいぐらいに!!  殺す。  殺す!  殺してやる!! 『間に合わなかったようですね』 「――!」  気がつけば世界は一変し、またあの森へとやってきていた。  もう四度目だ。  あの少女は、憂いを秘めた瞳で俺を見てくる。  それがどうしようもなく癪に障る。 「ああ、間に合わなかったよ。笑えよ……!」  俺は地面を殴りつける。  歯車と発条と螺子が転がる地面。当然、叩きつけた拳に血が滲 む。だからなんだ。こんな痛み……! 『時計仕掛けの天使――』 「……?」 『私と同じく、魔術と錬金術と科学によって織りあげられ組み上 げられしもの。  魔を討ち滅ぼす為に造られた玩具……人造の、天使や悪魔を模 した人形』 『私達の計画は頓挫し、私達は廃棄されました。いえ、廃棄され たはずでした。なぜならば、私達の力の源は――』  メフィは目を細めて言う。 『人の時間です。人間の、生命としての時間。それが人道に外れ たが故に――私達はあってはならぬものとして廃棄されました』 「それは、先生達から聞いてる」  昨晩、確かに聞いた。  化け物を倒すために化け物を作る、そんな馬鹿げた計画。  それは当然のように欠陥が見つかり、計画は凍結された。  だが―― 「おかしいだろ、だったらお前は何なんだよ? ここにいるお前 は、一体」  廃棄されたのなら何故ここに居る。  先生達は、ゴタゴタで解き放たれたと言っていたが。 『人の欲望は、罪深い』 「欲望……?」 『あまりにも強い力に目を奪われた誰かが。私達を盗み出し――  そして私達は、この地に散った』  そうか……、計画が凍結されてなお。  その力を無かったことにしてしまうには惜しいと思った誰かが ――それらを解き放ったのだろう。 『そして私は貴方の手に。  そして、誰かの手に渡った一体の天使が――その持ち主が、 人を食わせ、その時間を糧に』 「それが……島田の姉で、そして……一観だってのか」 『はい』  なら、先生達の言ってたように……永劫機とやらが、アレを作 り出して、人を襲わせていた――と。  ……そいつが、元凶。  妹を、殺した……!  ……いや、待て。まだ……そうとは決まってない!  島田の姉を思い出せ。  先生の言葉を思い出せ。 「そういう時はな、しっかりと見て、考えるんだ」  考えろ、思い出せ。   そう……島田の姉は助かったんだ。  一度時計仕掛けの獣に襲われ、消えても。  だったら……!  俺は立ち上がり、メフイに聞く。 「……妹は。一観は、助かるのか?」 『……』 「答えろ!」  口を閉ざすメフィに、俺は詰め寄る。 『貴方の妹を生贄とした、永劫機――そこから解き放つことは出 来るでしょう。  操奏者を説得できれば。  あるいは、その永劫機を――私の姉妹を破壊できれば。  ですが彼女に残された時間はもう――』  俺はその言葉が終わる前に、駆け出した。  電話を取り出し、ボタンを押す。  一観――ではない。先輩に、だ。  昨日の今日でまた頼むのも気が引けるが、そういう場合じゃな い。急がないといけない。  だが―― 「……くそ!」  先輩は電話に出ない。  こんな時に……!  仕方ない。とにかく探さないと。俺は走る。  ただ、走る――  「く……っ!」  刀がリノリウムの床を転がる。  夕日が校舎を朱に染める。休日の夕刻、人気の無い校舎。  不自然に人の居ないその戦場にて、敷神楽鶴祁は、眼前の敵に 完全に翻弄されていた。  あらゆる手段が通じない。  そして、男の腕が鶴祁の首を捉える。 「がっ……!」  持ち上がる鶴祁の体。 「何故……!」 「何故、か。それは何を指す? 俺が……時計仕掛けの獣を従え ていることがそんなに不思議か?」  背後の夕闇の廊下に、それらはキリキリと音を立てて蠢く。 「何故、そう、不思議に思っても仕方ないな。我が永劫機は時計 仕掛けの獣を作り出す力などは保有していないが――この力で、 支配することが出来る。そう支配しているのだ」 「支配……だと……!?」 「三時の天使、コーラルアークの力は時間共有≠セ」 「今まで生きてきた時間、重ねてきた時間を共有する……そう。  ただの働き蟻、働き蜂に過ぎぬこいつら。ただの獣、ただの虫 でしかない彼らは、俺と内的時間を共有することにより」 「その指令、自身に課せられたプログラムを俺の意志に書き換え られる。上書きされるのだ、俺の時間に」 「そして、俺の望むままに時を収集する。彼らは俺のために集め るのだ。そう……俺には時間がないからな」 「無辜の人々を犠牲にしてまで……っ!」 「――ふん」  男は笑う。嘲笑する。 「無辜の人々、か。お前は本当に、それがただ守られるべきだと 思っているのか」 「何を……っ!」 「ああ、守られるべきだろうさ。だが彼らにも対価は払ってもら わねばならない。そうでなければ不公平だろう」  だが男は、鶴祁の視線を受け、言う。 「……判ってはもらえんか。  ならば、致し方ない。理解してもらえないのなら無理やりにで も理解しあうしかないな……」  次の瞬間、鶴祁の視界が反転する。暗転する。空転する。  そして――世界を埋め尽くす触手。  それが鶴祁の体を拘束する。肌を這いずり回る。 「ッ!? こ、これは……っ! 何を!」 「……」  男はその光景を見て、少し唖然とし、そして考え込む。 「ふむ。これは確か俺が触手の怪物に襲われたときの記憶、その 時の時間……だが俺の時はこのような襲われ方ではなかった」 「純粋に俺のはらわたを喰らい、殺そうとしてきたはずだったの だが……どういうことだ? 男女の差異による食い違いか、それ とも……」 「お前か? 我が天使、コーラルよ」 「……いいえ。ごめんなさい、おそらくは、マスターの言葉通り に……この共有した時間の、獲物が女だった場合の時間展開」 「……まあいい。趣味ではないが、これも互いの理解を深める為 だ。このまま続行だ。俺が腹を食い破られた時の苦痛よりも……  腹に触手を沈ませ、犯される快楽に蕩けさせる方が、心を壊す 手段としては上策だろう。趣味は悪いがな」 「……っ! あなたは……っ!!」 「人は苦痛には耐えられる。戦士ならばなおさらだ。  だが……快楽にどこまで耐えられるかな? それにお前は処女 だったはずだな? ならば尚更だ。これが補習だ、お前へのな」 「我が天使、コーラルよ」 「……はい」 「お前が続きをやれ。俺は子供は趣味じゃない」 「はい、マスター」  男はそう言い、踵を返し、この共有された内的時間の世界から 立ち去ろうとする。 「……待てっ!!」 「……」  男は立ち止まる。だが、振り向きはしない。  振り向く意味が無い、と言わんばかりに。 「何故。何故こんなことを……」 「何故、か」 「言ったはずだ。俺には時間が無い。だから時間を稼ぐのだ。  そうしなければ、俺は戦えない」  そして、男の姿は消える。 「……ごめんなさい」  コーラルと呼ばれた少女が、うつむき、謝罪の言葉を述べる。  そして。  さらなる触手が、鶴祁を襲った。  街を走る。 貴方の妹は、校舎にいます  心の中に、メフィの声が響く。  その言葉に従っていいのかどうかは疑問だったが、それでも手 がかりはそれしかなかった。  走る。息が切れる。脇腹が痛くなり、足がもつれ、酸素が足り なくなる。  その全てを強引にねじ伏せ走り、俺は学校へとたどり着いた。  他の生徒たちの気配は無い。  まるで時間が止まったかのように静まり返った校舎。  俺は閉ざされた校門の鉄柵をよじ登り、進入する。  中学校の頃に似たことをやったので、コツは覚えている。策を 越えて運動場に。だがここにも人の姿は無い。 (どこだ、どこにいるんだ?)  運動場を走り、中庭へと進みながら、俺は心の中でメフィに問 いかける。 近くです。あなたの正面から四時の方向、上空の位置  その言葉に従い、振り返る。校舎の中だ。  俺は扉を開けようとして……鍵がかかっている事に気づく。 「……」  一瞬だけ迷い、そして躊躇なく石を拾い、窓ガラスに叩き付けた。  割れる。  手を伸ばし、鍵を開け、校舎に侵入する。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「……!?」  俺は、階段の方から光が漏れているのを見た。  電灯の光ではない。夕日の光でもない。  もっと儚げで朧げな、幽玄の光だった。 「天……使……?」  階段に浮かぶのは、翼を背負った少女の姿。 「こないで……ください……」  消え入るようなか細い声で告げる天使。 「どういうことだ!? お前が、お前が妹を、一観を……!?」 「ごめん……なさい……」  俺の詰寄りに、ただ悲しそうに首を振る。 「こないで……ください。私は……これ以上……もう……」  そういい残し、天使は消える。 「……何、なんだ。おい、これは何なんだ?」 彼女もまた、その持ち主に縛られしもの 「? どういう……」 仮に、貴方が私と契約したとしましょう。  そして貴方が、「この学園の生徒を皆殺しにしろ」と命じたな らば……私はそれを叶えようとします。私の意志とは関係なく 「な……!?」 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ あくまで仮定です。私たちは被造物、天使や悪魔を模しただけ のただの時計仕掛けの機械装置。  逆らうことは出来ません 「じゃあ何か、あれは命令されて仕方なく……?」 おそらくは 「……」  拳を握り締める。  理不尽すぎる。さっきから、何なんだこれは。  罪も何もなく、なのにただ誘拐され、生贄にされた妹達。  そのような事などしたくないのに、命令に逆らえずに妹達を食 らった女の子。  そんな残酷さに、何の意味がある。  何処にぶつけていいのかも判らぬ怒りがせり上がる。  その怒りに歯噛みしながら、俺は階段を昇り―― 「……ぅ……」  微かな、声を聞いた。 「声……が。誰だ、まさか一観が――!?」  俺は走り、その部屋の前にたどり着く。  ドアをあける。  そこには……。 「先……輩?」  ぐったりと倒れている、敷神楽鶴祁先輩の姿があった。 「ちょ、大丈夫ですかっ!」  俺は駆け寄り、先輩の体を抱き上げる。  ……熱い。  先輩の体が熱を持ち、息も荒い。 「……祥……吾、くん……?」 「はい。俺です。大丈夫ですか、先輩。一体何が……」 「……敵、に……ぅ……っ、はぁ……っ」  熱い吐息を吐く先輩。  その肌には玉のような汗が浮かんでいる。 「先輩っ!」 「……っ、く……しょ、うごくん……」 「はい」  先輩が俺の服を掴み、爪を立てる。そして息を吐く。  その口から出た言葉は、俺の思考を吹き飛ばすに容易な一言だ った。 「私……を、抱いて……く、れ……っ」 「……はい?」 「……」 「……」 「敵の……攻撃で……からだが、うずい……てっ、これを……鎮 めるには…………っ」 「……」 「こんなはしたないことを……、頼む……恥知らずは、百も承知 だ……っ、だけど……止まらないんだ、体が……疼いて……っ」 「先輩……」  俺は…… ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 抱く。 バッドエンド ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 抱かない。 「……ごめん、先輩」  そう言って、俺は。  先輩の頬をひっ叩いた。 「……!」 「しっかりしてください、先輩。あまり長い付き合いじゃない、 一日二日程度しか知らないけど……でもっ」 「先輩は、そんなに弱い人じゃないはずでしょう……っ!」  俺が無茶を言っているのはわかってる。  理想を押し付けているのもわかってる。  だけど。  俺の中の先輩は……凛としたあの姿は。  どんな困難にも負けない姿だった。  ヒーローなんていない、と思っていた俺の前に現れた、そんな 姿だったから。 「……」 「すまなかった……駄目だな私は。まだまだ……修行が足りん」 「先輩……」  先輩の表情に、完全に……とまではいわないものの、いつもの 強さが戻る。  俺はそれに安堵する。その時…… 「その通りだな。だが恥ずべき事ではない。誰も彼もが皆、完璧 ではないのだから」  俺はその声に振り向く。  そこにいたのは…… 「先生」  吾妻先生が、そこにいた。  いつもと変わらぬ表情で。  ……傍らに、天使の少女を従えて。  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「……先生」  その光景が、なにがなんなのかわからない。  あれは、あの娘は……敵の。  いや、違う。そうだ、先生が敵を倒し、彼女も解放したとか、 そういう展開に決まっている。  そうだろう。そのはずだ。そうだと言ってくれ。  だが……俺の願いもむなしく、先生は告げる。 「コーラルの詰めが甘かったか、それとも鶴祁が想定以上に強か ったか。流石だな、俺が腹を食い破られた時は、泣きはしなかっ たがあまりの苦痛に絶叫したものだが」  平然と、告げる。 「だが、それでも戦う事は出来そうにないな。まあ、戦う意思を 取り戻しただけでも賞賛に値するるやはりお前はすごいな、俺な ぞよりもよほど資質に溢れている」 「故に悲しいな。資質ゆえに、そういう生き方を選ばざるを得な かったお前の運命に同情するよ」 「先生……あんた、何を」 「何をって? ……理解が遅いぞ、時坂。馬鹿になれと言ったが 愚か過ぎるのはいただけない。  それとも判っていて否定しているのか?」 「あんたは……」 「……しかし驚いたと言えばお前もだ。いや、間が悪かったな、 まさか俺がばら撒いた時計仕掛けの悪魔が、ことごとくお前の関 係者を襲い、さらには妹を……とは」 「あんたが……」 「世界の悪意を感じるよ。この巡り合わさえなければ、お前も俺 と共に人類のために戦えたかもしれないのに」 「元凶……!」  悪びれもせず。  吾妻修三はただ、その狂気を唄った。 「……なんで」 「ん?」 「……答えろ先生! あんたがなんで、こんなことをする!」 「……」 「何故、か。よくその質問をされる日だ。  鶴祁、お前も聞きたがっていたな。ああ、答えようじゃないか。  簡単な回答だ。俺には時間が無い」 「時間……?」 「ああ」  先生は上着を脱ぎだす。 「……!」  上半身裸になった先生の体は……  傷と痣と、そして。  あきらかに病巣に蝕まれ変色した肌を、晒していた。 「……!」 「……」  俺も、そして後ろの先輩も息を飲む。  病気に詳しくない俺でも見て取れる。あの体はまともな、健康 な人間のものではない。 「見ての通りだ。戦い続けた後遺症でね。内臓の破損、そして毒 などによる汚染。その他様々な病気などでな、俺の命はもはや幾 許もない。だが……」  先生は、血を吐くように言う。 「駄目なのだ。時間が無いのだ。戦い続ける時間が俺には無い。  使命を果たし戦うだけの時間が俺には残されていない……!」 「だから俺には時間が必要なのだ。その為に、回収した時計仕掛 けの獣を、永劫機の時間操作能力……時間共有≠ノて影響下に 置き、時間を集めさせた。俺の命を永らえさせるために」 「……世界を守る、人々を守る戦いのために」 「そのために……そんなことのために人々を! 一観を犠牲にし ようっていうのか、あんたは!」 「そうだ」  吾妻先生は、あっさりとそう言い放った。 あなたは  脳裏にフラッシュバックする記憶。 一観を守って  守る……だと?  そんな言葉を、こんなことをしながら言うのか、あんたは。 「おかしいだろ! 人を守るために、人を襲うなんて!」  それは決して、免罪符として人を傷つけていいものではない。 そのはずだ。先輩だって、俺を……人々を守るために自らの寿命 すら犠牲にして戦った。  なのに……なのに! 「よりにもよって、あんたが!」 「それが貴様らが言える言葉か!!」 「がっ……!!」  廊下に何度も叩きつけられる。その俺を、先生は怒りのこもっ た目で見下ろす。 「守られてる事に甘んじ、増長するバカガキどもが。  守られるのは当然か? 助けられるのは普通のことか?  貴様らがのほほんとくだらん青春を謳歌する裏で、傷つき苦し む者がどれだけいるか知ってるか?」  そういいながら、先生は歩み寄り、そして倒れた俺の頭を踏み つける。 「祥吾くん!」 「う……がっ……!」 「知るどころか考えることもなかっただろう? ああ、そうだ。  無知なお前達はそうやって日常を謳歌する。その裏で起きる悲 劇を鑑みることなく……愚図で愚鈍で愚劣にな」  二度、三度と踏みつける。 「バケモノを見る目で俺達を見て。いざ自分達が危なくなると安 全なところから無責任に戦えと叫ぶ。  なにひとつ、変わってないのだ。変わらないのだ」 「そう。それは俺達もまた同じ。変わらないのだ。それでも、俺 達は魔を討ち、人々を守るために、世界を守るために戦うしかな い。そういうふうにしか出来ていないのだから」  俺は、その言葉を聴きながら、先生の足を掴む。 「……?」  喉から声を絞り出す。 「一観を……返せ……」 「お前の妹だったな。だが無理だ。ああ、勘違いするな。  返してやってもいい、だがそれでも……無理なのだ。  あの娘には、時間が残されていない。俺と同じだ」 「……!」  それは、メフィの言った言葉だ……。  時間が無い。  あれは、別の意味かと思っていた。だが……。  額面どおりの意味だったというのか。 「永劫機は人の寿命が完璧に把握できる……という訳ではない。  それは未契約の状態の永劫機が、大まかに判る程度だ。  だが、一度食ってしまえば、それがどの程度時間が残されてい たかは判る。エネルギー源だからな」 「彼女には時間がほとんど残っていなかった。  私が食わなくても、もしかしたら明日にも、交通事故か、転落 事故か、あるいは偶然銀行強盗にでも巻き込まれて……命を失っ ていただろう」 「寿命とはそういうものだ。残された時間がないとは、そういう 理不尽な……世界の悪意なのだ」 「……」  声が出ない。  じゃあ……俺のやっていたことは何だ。 「理不尽だろう。残酷だろう。許せないだろう。  それが現実だ。それが世界だ。  我らが守るべきものの正体だ」 「そして守るために、これが必要なのだ」  先生は、少女の髪をわしづかみにして持ち上げる。 「破棄、破壊などとんでもない。俺にとってまさしく天恵だ。  そう。こいつらは人の時間を食らって力にする。  ああ、所有者である俺の時間もそうだが」 「なによりもその俺の時間の代わりとして、他の誰かの時間をそ の力にする。つまり、だ。無能どもも、世界の為に戦う事が出来 るのだよ」  俺の体を蹴り上げる。 「そうやって世界を守る。  そうだ、人類が一丸となる。我ら異能者も、そして無能な一般 人達も、その全てが等しく魔と戦うのだ……!」  その、自分に酔った言葉に。 「ふざ、け……るな」  さんざん蹴られ、踏みつけられて体自由が痛いけど、それでも ゆっくりと立ち上がる。 「そんなの、押し付けじゃねぇか……」 「押し付け、か。違うな。押し付けたのはお前達だ」 「違う!!!!」  だが、俺は叫ぶ。 「先輩は言ってた、自分で選んだ道だって、誇った笑顔で言って たじゃないか……。俺は先輩を信じる。俺を、俺達を助けてくれ た先輩の姿を、俺は信じる」 「そりゃ、俺が知らない所で、そういうことだってあったんだろ うさ。だけど、だからといって全てがそうだなんて誰が決めた。  みんな、違うんだ。だけどそれでも……  みんな、それぞれに守りたいものがあるはずだ」 「だから戦うんだろう、先生。  あんただって、そうだったはずじゃないのかよ!」 「……っ」 「利いた風な口を! 戦わなかったお前に何がわかる!」  そうだ、俺は戦わなかった。戦えなかった。  だけど! 「ああ、わからないさ。だけどさ、だからといって。  無関係な、ただの女の子を犠牲にしていいはずもなければ!  戦いたくない女の子を――無理やり戦わせて、それでいいはず もないだろうっ!!」  その俺の言葉に、先生に頭をつかまれている娘が、はっと頭を 上げる。 「戦いたくない女の子? 間違えるな時坂。これはただの機械人 形、ただの兵器――欠陥兵器に過ぎない」 「それでも、泣いていた。女の子の姿をした誰かが泣いていた!  そんな涙の流れない世界がほしくて――その為に戦ってたんじ ゃないのか!? 答えろ先生!! あんたは、何のために!!」 「……そんなこと」  吾妻は言う。 「そんなこと、忘れたよ!! 戦って、戦って、戦ってきて!!  お前らよりもっと小さい、子供の頃から戦ってきて、異能者と して戦うしかなくて!!」 「最初のクソ甘い理想だとか、そんなもんはドブに捨ててきた!  捨てなきゃ生きることも出来なかった!!  理由? 目的? そんなものはもうない!」 「あるのはただひとつ、世界を守る――ただそれだけだ!!」  言って、先生は叫ぶ。  呪文を。  あの時の先輩と同じように、時計仕掛けの天使の機構を発現さ せるキーワードを。  ――時を真似るがよい。      時は一切の物を緩やかに破壊せん。    時はおもむろに浸蝕せしもの。       消耗させ、万物遍く全てを引き離すものなれば――  響く言葉。振動する声と共に世界が歪む。 「ぅ……あああっ!」  天使の少女の姿が軋む。  体が解れ、崩れ、砕け――幾つもの弾機、発条、歯車、螺子へ と変わっていく。  それらは渦を巻き、螺旋を描きて輪と重なる。  それはまるで、二重螺旋の魔法陣。  そこに集まる大質量の魂源力は、やがて織り上げられ―― 「爆覧せよ! 三時の天使、コーラルアーク!」  力が、爆砕する。  全長3メートルの巨体。  チクタクチクタクと刻まれる薄桃色の鋼の巨躯。  これこそが、その危険性により計画凍結・破棄された、  時計仕掛けの天使―― 「……永劫機コーラルアーク。我が契約せし永劫機。  さあ、時坂。補習の時間だ。  言いたいことがあるなら……力で示してみろ!  この人形を倒してな!」 「もっとも――生身でそれが出来るとは思わんがな」  無茶を言う。そして確かにその通りだ。  俺は先輩ともあんたとも違う。  戦う術など持ち合わせては居ない。  何も出来ない。目の前の巨大な天使に立ち向かう事も、そこに 食われた妹たちを救うことも――  俺ただひとりでは出来はしない。  そう。  一人なら、出来はしない。  だがしかし。  時坂祥吾は、一人ではない。今は。  手を伸ばす。  延ばした先には、衝撃で転がり落ちた、ひとつの時計。  妹からもらった誕生プレゼント。  そして、「彼女」の宿る――黄金懐中時計。 「! 時坂、お前……それは、その時計は……!」  先生が叫ぶ。  だがその声も聞こえない。  聞こえるのは、ただのひとつの音。心臓の鼓動を刻むかのよう な、針の音。それが今まさに、神像の鼓動を刻む。 戦うのですね?  発条仕掛けの森の中で、メフィは言う。  彼女の前に俺は立つ。 「ああ」 妹さんたちを助けるために、敵の時間を捧げるために  だが、その言葉に俺はかぶりを振る。  違う。そうじゃない。 では妹さんを――諦めるのですか? 「違う。言ったな、誰かの時間を捧げれば、一観に残された時間 は増える、って」 はい 「それは――俺でもいいんだろ」 !?  メフィが狼狽したのが判る。 それ、は――  目を少し逸らしながらメフィは告げる。 可能です。ですがそれだと―― 「ごちゃごちゃと御託はいい。妹は助ける、死なせない。  他の誰かを犠牲にして助けることもしない。  先輩が、自分の寿命を、時間を犠牲にして俺を助けてくれたよ うに――」 「今度は、俺の番だ」  ただそれだけ、それだけの話だ。  懐中時計を掴み、笑う膝を気合で押さえて立ち上がる。  俺の口からは、呪文が漏れていた。  そう、黄金懐中時計に封印された時計仕掛けの悪魔の機構を開 放するキーワード。    Es kann die Spur  ――我が地上の日々の追憶は    von meinen Erdetagen    永劫へと滅ぶ事無し    Im Vorgefuehl von solchem hohen Glueck    その福音をこの身に受け    ich jetzt den hoechsten Augenblick. Geniess    今此処に来たれ 至高なる瞬間よ 「なん……だと」  先生が狼狽する。それを聞いて。 「その式文……まさか、お前!」  俺は、吾妻先生のその視線を正面から受け止める。 「戦わない奴に何がわかる、と言ったよな、先生。  ああ、確かにそうだ。そこは先生の言うとおりだよ。  だから俺は――戦う!」  黄金の懐中時計が解れ、崩れ、砕け――幾つもの弾機、発条、 歯車、螺子へと変わっていく。  それらは渦を巻き、螺旋を描きて輪と重なる。  それはまるで、二重螺旋の魔法陣。  そこに集まる大質量の魔力は、やがて織り上げられ――  俺は、呼ぶ。 「だから、来い――俺は此処に、お前と契約する。  大切なものを守るためなら、俺は――」 「悪魔にだって、魂を売ってやる!!」    Verweile doch! Du bist so schon    時よ止まれ、お前は――美しい!    力が、爆現する。  全長3メートルの巨体。  チクタクチクタクと刻まれる黒きクロームの巨躯。  黒く染まる闇色の中、黄金のラインが赤く脈打つ。  各部から露出した銀色のフレームが規則正しく鼓動を刻む。  背中からは巨大な尻尾。  頭部にせり出す二本の角、全体の鋭角的なシルエットからはま さしく竜を連想させる。  それはモデルとなった悪魔――地獄の大公の姿ゆえか。  これこそが、その危険性により計画凍結・破棄された、  時計仕掛けの悪魔―― 「永劫機――メフィストフェレス!」  時計仕掛けのクロームが吼える。  俺の頭の中に、浮かんでくる何か。  それは明確な言葉ではない。文字でも映像でもない。  だがそれでも、判る。  自分に何が出来るか。この悪魔に何が出来るか。  そして――何をすべきか。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「……!? なんだ、これは……」  先生は違和感に気づく。  そう、何かがおかしい。おかしいのだ。  二体の永劫機の召喚。  その余波は激しく、コーラルアークの顕現はその衝撃で俺を吹 きとばしたほどだ。  だが――  空気が静か過ぎる。  埃や、砕けたガラスの破片が宙を舞っていない。いや――  停止、しているのだ。 「これは……まさか、結界。  お前、時間を――!?」  そう。  先生の操る永劫機コーラルアークが、時間を共有させるのと同 じように。  俺の操る永劫機メフィストフェレスは――時間を止める! ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  その有様に先生の動きが止まる。 「いけぇぇぇえっ!」  俺は叫ぶ。  その声に、意思に従い、黒い巨体が突進し、琥珀色の巨体へと ぶつかる。  力と力のぶつかり合い。  二体の時計仕掛けの人形が絡み合い、窓を突き破り校舎から運 動場に落ちる。  永劫機メフィストフェレスは空を飛ぶことは出来ないので、三 階から地面に叩きつけられる。 「ぐっ……!」  その衝撃が俺にフィードバックされる。  ダメージのフィードバック、これもまた永劫機の兵器としての 欠点のひとつ、だろう。契約した操奏者と繋がっている。それゆ えにそのダメージがフィードバックされるのだ。  装甲に守られていたりするので、俺が直接三階から地面に叩き つけられるのと同等のダメージが入る、というものではないよう だが――それでも相応の衝撃が俺の体を襲う。  そんな中、砕かれたガラスは、やはり途中で空中に停止する。  時間を止められているからといって、止まった物体に干渉不可 能、というわけではないようだった。  それはそうだ。完全な意味で、完璧に時を停止させる事が出来 たなら、光さえも止まり、世界は闇に包まれる。そして空気すら 停止し、呼吸すら不可能となるだろう。よく時間停止系の漫画や 小説に対して行われる突込みだ。  その意味では、メフィストフェレスの結界も正しく時間を停止 させたというわけではないのだろう。どういう原理かはしらない が、非常に都合のいい時間停止という事だ。 「くっ!」  コーラルアークが拳をメフェストフェレスに叩き込む。  一観だけでなく、数人もの魂を取り込んだ永劫機コーラルアー クの総出力は、永劫機メフィストフェレスを凌駕している。  加えて、それをる吾妻先生もまた熟練の戦士だ。その力の総量 と経験則は何よりの力となり、俺程度では先生の足元にも及ばな いだろう。  叩きつけられ、クロームのボディが軋むと同時に、俺にも衝撃 が走る。 「ぐ……がっ!」 「どうした! それでよくもでかい口が叩けたものだ!」  先生が叫ぶ。コーラルアークを操りながら、その戦いを背後に しながら、俺に向かって。 「所詮……この世界は力が全てなのだ。そう、お前は守れない。  口だけならなんとでもいえる。だが、力なき正義は無力。無力 なのだ……!」  そう、嘲笑する。見下す。貶め、揶揄し、罵倒する。  ――血を吐くような声で。何かを呪うかのように。 「手に入れた力があろうとも鍛えなければ価値が無い。覚悟がな ければ意味が無い。  そしてどれだけ力があろうとも、それを制御できなければ――  そして、結果を残さなければ是非も無いッッ!!」  コーラルアークがメフィストフェレスの首を絞めあげ、持ち上 げる。いや、それだけじゃない――気がつけば俺の首もまた、先 生に掴み上げられている。 「甘い理想など。現実という重さに潰される、踏みにじられてし まうのだ、残酷なまでの理不尽に。  ガキのたわごとでは、世界は守れない」  ……そうかよ。  ああ、確かにそうかもしれないよ、先生。  だけど……! 「――だけど、それでも……」  メフィストの手が動き、コーラルアークの腕を掴む。  俺の手も、先生の腕を掴む。 「……?」 「どれだけ現実が重くても。  時の流れに擦り切れて、かつての理想を忘れる日が来たとして も……」  メフィストフェレスの手に力がみなぎる。  首を絞めていたコーラルアークの腕を、ゆっくりと引き剥がし ていく。 「それが……!」  俺の脳裏に浮かぶのは。  妹の、一観の明るい笑顔。  友人の、島田が姉の事を文句言いながらも楽しそうに話す顔。  ごめんなさいと謝った、コーラルの悲しそうな顔。  そして初めて見た時から心に残る、メフィの――何かに諦め、 孤独に疲れ、磨耗した空虚な表情。  それら全てが――俺の胸に去来する。 「何かを諦める理由には、ならない……っ!!」  だから、きっと。  総出力の差を覆し、コーラルアークの腕を引き剥がしたその力 は……単純な。異能だの時間だの。そんなのとはもっと別の力だ ったのだろう。 「な……!!」  鋼がひしゃげる音が響く。  コーラルアークの腕が、その装甲がひしゃげ、砕ける。そのダ メージがフィドバックされ、腕の激痛に先生は顔をしかめる。  それが好機。俺は首をつかまれたまま、先生の胴体に蹴りを叩 き込む。  メフィストフェレスもまた、跳躍し、距離をとる。 「なるほどな、だが……っ!!」  先生の叫びと共に、コーラルアークの腕の装甲が復元される。 砕かれた発条、螺子が組み合わさる。  力に任せた強引な再生能力。やはり単純な力の総量では勝てな い。永劫機は擬似的な魔物だ。つまり、生物としての特性を兼ね 備えている。  生物は、治癒し、再生する。つまり永劫機もまた生物的な自己 治癒能力を有しており――そしてそれは、時間を高速かつ大量に 食い潰す事で、ダメージをその場で復元することも可能なのだ。  どれだけダメージを与えようと、その力にあかして復元してし まう。そしてその源になっているのは――食われている一観たち の時間!  戦いを長引かせるわけにはいかない。だがどうすればいい。  力の、時間の総出力では勝てない。ただでさえ俺の時間は、あ とで……妹のために、一観のために使わないといけないんだ。  それが俺の責務なんだから。 あなたは  脳裏にフラッシュバックする記憶。 一観を守って  今度は、今度こそは――間に合わなかったじゃすまされない!  まだ間に合う。まだ助かる。まだ助けられる。  たとえ――俺の全てを犠牲にしようとも!  だがどうする。どうすればいい……!  考えろ。その足りない頭で考え抜け!  勝つ方法。妹を助ける方法を。  この……時間の止まった世界の中で、敵を打倒する方法を!  その時、俺の頭に浮かぶ、あの時の言葉。 そういう時はな、相手の力をそのまま利用するんだ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  利用……いや、相手の、コーラルアークの力を利用して何が出 来る? 先生の使った合気じみた格闘技なんて俺には使えない。  ……いや、違う。諦めるな考えろ。  そうだ。  利用するのは、相手の力だけでなくてもいい。 「――メフィ」 『はい』  俺はメフィに語りかける。 「質問だ。お前やあいつは――破壊されたら、死ぬのか?」 『……』  その質問の意図を、メフィは感づいたのだろう。  そう、よりにもよってこの愚かな所有者は、捧げられた妹達だ けではなく――あの女の子、コーラル本人も救いたいと思ってい るという、馬鹿げたこの考えを。 『はい。ですが――それは、完璧に破壊された場合のみです。  中枢であり本体である、懐中時計さえ無事なら――』  つまり。  彼女達を駆動させている源。  心臓であり頭脳である、その核を確保すればいい。 『そして、そこには――』  そういうことか。  なら、やるべき事は定まった。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「……?」  先生は周囲を見て、怪訝な顔をする。  気づいたのだろう。  メフィストフェレスによって止められたはずの時間が、少しず つ動こうとしている事に。  宙に止まる粉塵、ガラス、そして舞う木の葉。  それらが少しずつ、動き出そうと震えていた。 「……結界を維持する力すらも尽きかけているか」  先生は嘆息する。 「もういい。もういい! 所詮此処まで、お前には何も出来ん。  ああ、よくわかった。お前は落第だ。口だけで何も成せはしな い。残念だよ……実に残念だ。  コーラルアーク、とどめをさしてやれ!」  コーラルアークが吼える。  主の命令に答え、満身創痍のメフィストフェレスを破壊せんと 一歩を踏み出そうとして―― 「!?」  先生は目を見張る。  コーラルアークの動きが緩慢になる。まるで、そう……濁流に 足をとられて動けなくなっているかのように。 「何だ、何が起こっている……?」  足だけではない。  全身がぎこちなく軋む。 「エネルギーが尽きた? いやそんなはずはない。魂の残量は把 握している。では何故だ。コーラルアーク自身の不調ではない。 となると、外部からの干渉か……!」  先生は俺に向かって叫び、問う。 「何をした……何をした時坂!!」  俺はゆっくりと立ち上がり、その問いに答える。 「先生。小川を石で堰き止めたことはあるか? あれと同じだ。  堤防で堰き止められた水の流れは止まる。だがやがて溢れた水 は少しづつ漏れ、そして――  決壊し、あふれ出す」 「!? まさか、貴様――!」 「察したか。この結界は時間を止めたんじゃない。  結界範囲内の時間を「堰き止めた」んだ。  そう――周囲の時間の流れから切り離され堰き止められた、こ の時間の流れはやがて膨大な爆流となり襲う。  あんたは最初から履き違えていたんだよ、これは戦う場所を整 えるための結界じゃない。  この結界そのものが俺の、俺たちの武器だ」  そう、メフィストフェレスの能力は時間を止める事ではない。  完璧な時間の停止ではなく、時間の流れをせき止めるものだ。  ……最も、それに気づかせてくれたのは。この結界の本当の使 い道、もっとも有効な武器としての戦い方を気づかせてくれたの は……あんたの言葉だ、先生。  時空堰止結界、クォ・ヴァディス。  それは周囲の時間を、堤防のようにせき止める。  止められた時間は、本来の流れに戻ろうとその勢いを増す。  その時間の復元作用を逆手に取る。  堤防が決壊するまでの時間、メフィストフェレスは負けないよ うに、「時間稼ぎ」をすればいい。  コーラルアークは、堰き止められなくなった時間の余波、その 軋みによって動きを止められている状態だ。  そしてそれは、嵐の前の静けさに過ぎず―― 「――っ!?」  時の流れが、視覚的に渦を巻くほどに流れ出す。  その中心には、時計の図柄のように浮かぶ魔法陣に高速された コーラルアーク。  メフィストフェレスは、その渦の流れの中心を飛翔する! さて時坂、だがそれでも獣というものはしぶとい。動きを縫っ た程度では倒せない。どうする?  答えは簡単だ。心臓を止めればいい  狙うはただひとつ。  敵永劫機本体ではない。ただその中心に向かって駆ける。  永劫機の中心。  その体内に安置された、砂時計。  それは、捧げられた生贄の魂の時間を魂源力へと変換する、時 空駆動機関。本体であり中枢、頭脳であり心臓である懐中時計。  その核が展開し変じたそれは、大気中の魂源力や物質を集め、 まさしく錬金術により永劫機の体を構成する。  つまり。  その核を永劫機の体から引き剥がしてしまえば、もはや永劫機 はただの人形に過ぎない。 敵の心臓は何処だ。急所は何処だ。そこに至る道程は何処だ。  考えて見極めて、そして――  そして、その核の砂時計を破壊し、時の砂を解き放てば――捧 げられた者は、再び開放される。 「時空爆縮《クロノス》――」  メフィストフェレスは飛翔し、そして左手をコーラルアークの 中心に叩きつける。  破砕音が響く。  鋼を砕き、抉り、メフィストフェレスの爪が侵入する。  探り当てたその体内の核を掴み、そして力任せに引きちぎる。  右手に集う、時間の爆流。  それを―― 迷わず、叩き込め 「――回帰呪法《レグレシオン》!!」  その全てを、残されたコーラルアークの体へと叩きつける。  左回りに渦を巻く時空流と、右回りに唸るメフィストフェレス の拳。  その時間の流れがぶつかり合う!  回帰しようとする流れ。膨れ上がる力。  それが反応し合い、一気に爆縮し、コーラルアークのボディを 分子レベルで爆砕していく。  それにより生じるエネルギーは光の柱となり、天に突き立った。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  コーラルアークの体が破壊された中、その光の粒が幻想的に舞 う中―― 「……」 「……」  吾妻先生は、立っていた。  ……憑き物が落ちたような顔で。 「祥吾くん……先生……っ」  先輩が、重い体を引きずって現れる。まだ体力は回復していな いのだろう。 「……すまない、祥吾くん。私が……」  この決着は、私がつけねばならなかったのに。  そう先輩は、声にならない声でつぶやく。 「謝るな」  それに答えたのは、俺ではなく先生だった。 「鶴祁。お前が自らの意思で戦士として戦うことを選んだのと同 じだ。時坂も……祥吾もまた、自らの意思で俺の前に立った。そ れだけのことだ」 「先生……」 「最後の補習、いや授業だ、  鶴祁、祥吾。よく見ていろ――これが」  先生は、一歩前に足を出す。  それだけで。  ただ歩くという、それだけで――先生の体に亀裂が走る。 「!」 「これが――永劫機の欠陥のひとつだよ。契約せし者が死ぬ時、 その身魂は砕け散り、時の流れから忘れ去られる。  だがな、祥吾……」  先生は言う。 「お前は、正しいことをした」 「……」  違う。違うよ先生。俺はただ、妹を助けたいだけで……。 「それで、いいんだ」  先生は。そんな俺の心を見透かしたように、笑う。 「忘れていた。長らく忘れていた――手段が何時しか目的へと摩 り替わり、何のために戦ってきたのか、そんなことすら、忘れて しまっていた」  先生は笑う。罅割れ砕けていく顔で、笑う。  俺の中に流れ込んでくる思いがあった。  それは、先生の生きてきた時間、思い。それが――メフィスト フェレスの掌中にあるコーラルアークの核から流れ込んでくる。  時間共有の力の残滓……?  そして俺達は、先生の生き様を知った。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  だがそれでも、吾妻修三の物語を、此処で語ることは無益であ り無意味である。なぜなら彼の人生は、まさしく苦難の道、ただ それだけの繰り返しでしかなかったからだ。  異能の力を秘めながら、しかし彼は師に恵まれなかった。故に 自らの力を異能の顕現として花開かせる事はなく。  ただ彼は、武術のみを修練し、鍛え、技として身に着けた。  そしてその力で、弱き人々を救おうと戦った、ただそれだけの 人生である。  世には怪異魔物が跳梁跋扈していた。夜の闇に、日常の裏に、 昔も今も怪異は潜む。  斬った。斬った。吾妻はひたすらに魔を斬った。  だが彼に与えられるのは、救えなかった人々の血、己を苛む無 力感、そして――自らが救えた人々の、バケモノを見るような眼 差し。だがそれでもよかったのだ。ほんの少しでも救えたなら、 それでいい。救えなかった人々がいるなら、次こそは救おうと、 自らを鍛えた。  自らに救いなどいらぬ。自らに安らぎなどいらぬ。この身は異 能の刃なれば、ただただ人々の安寧のために。  ただそうやって剣を振るってきた吾妻修三に、人の幸せなど訪 れるべくもない。  だがそれでもよかったのだ。  自らが報われぬだけならば我慢できた。  同じように異能の力を持った同志同胞――そして、後に続く子 供たち。  彼らもまた、報われぬ道を歩むならば。  力を持つ、ただそれだけで――血で血を洗う戦いに身を投げる 道しかないというのなら!  自分は何のために戦ったのだ!  守りたかったのは、力を持たぬ人々だけではなかった。ただ多 くの人々を、貴賎なく区別なく、ただ助け、守りたかった。だが 世界は容赦なく人々を区別して、戦いに繰り出させ殺していく。 力を持たぬ、ただそれだけで、守られるべき特権を得て。  力を持つ、ただそれだけで、命を賭して戦地に赴く責務を背負 わされる。  それが権利か! それが義務か!  ならば――自分の覚悟も、何の意味もない、ただの責任でしか なかったというのか!  そう悟ってなお、吾妻は己の道を変えることは出来なかった。  戦いにしか生きてこなかった男だ。そう在るしかなかった。  だが――時は残酷だ。  彼の思いを削り、磨耗させていくと同時に、彼の肉体からも力 を奪っていった。  戦い続けた男の身体は最高潮を過ぎ衰えていくばかりである。  しかし世界は戦いを彼に求める。  戦えないのなら、育てろと。  子供を鍛え、戦士に育て上げ、戦わせろと。  弱き人々を守るために。  世界を守るために。  彼らを犠牲にせよ――と。  ふざけるな!!  吾妻修三は激昂する。  弱き人々、ただ安全地帯から声高々に自分達を守れと叫ぶだけ の人間たちと。  大切な者を守るために力を鍛え、学ぶ異能者の子供たち。  どれほどの違いがある。  違いなどないのだ。  そう、違いなどないのなら。  生贄は、お前達でもいいはずだ! ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  ――そうして。  吾妻修三は、一般人の生徒を襲った。  ただそこにいただけの少女。誰でも良かったのだ。そう、違い などないのだから。  そしてそれを、懐中時計に秘められた、機械仕掛けの天使の少 女への生贄とした。  間違ってなどいない。  間違ってなどいない。  守れと言った。世界を守れと。人々を守れと。  そのために、異能の力を持つ子らを犠牲にするというのなら。  その異能の力のために、一般人が犠牲になろうとも仕方ない。 それは必要な犠牲だ。  そして吾妻は戦うのだ。  衰えた力の代わりに得た、新たなる力、永劫機によって、魔を 討ち、世界を守る。  それの何処が間違っている?  そんな吾妻に――立ち向かった生徒がいた。 “だけど、だからといって、全てがそうだなんて誰が決めた。  それでも……みんな、それぞれに守りたいものがあるはずだ。  だから戦うんだろう、先生。  あんただって、そうだったはずじゃないのかよ!” ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  彼は、ただの普通の人間だった。  異能の力は確かに秘めていたのだろう。だが少なくとも、普通 に育ってきた、普通の少年だった。  そんな少年が、妹を助けるために立ち向かってきた。  幼稚で愚かしい、陳腐な言葉を吐きながら。  ただただ――真っ直ぐに。 “そんな涙の流れない世界がほしくて――  戦ってたんじゃないのか!?”  それは。  かつて捨てた理想。かつて失った願い。もう遠く戻らない、祈 りだった。  馬鹿馬鹿しい。笑わせる。  世界はそんなに奇麗事で出来ていない。  そんな都合のいいハッピーエンドなど――ありはしないのだ。  だが、それでも。  それでもそれは、誰もが望む少年の日の夢想であり――確かに 吾妻が胸に懐いたもの。  幼い日、異能の力が自身にもあると知り。  それを発現させる方法も知らず、それを見出してくれる師もお らぬ中。ただ、理不尽な魔から、人々を守りたいと――  ただ、泣いている誰かに、笑顔になって欲しいと――  ただそれだけを胸に懐いて、木の枝を拾い、日が暮れるまで振 り回し、打ち付けた遠い追憶。  そうだ。  犠牲など欲しくなかった。生贄など押し付けたくなかった。  誰も傷つかない、そんな未来を望んでいた――  吾妻修三は、思い出す。  かつての願い。かつての祈り。かつての――想いを。  ただ、思い出すのが遅すぎたのかもしれない。  それでも――  もはや自分が戦うことが出来なくても。   後に思いを託せるのなら。  後に意志を託せるのなら。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「お前達は、間違うな」  先生は言う。 「俺のようになるな。  俺のように道を踏み外した外道へと堕ちるな。……お前達なら 心配はないだろうが」 「先生、俺は――」 「謝るな」  先生は言う。 「言ったはずだ、俺には時間がない、と。いずれ明日にでも死に 逝くが必定だった。  お前が俺を殺したわけじゃない。だから、謝るな」  先生は、俺と先輩の顔を見る。  もはや、頭しか、いや顔しか残されていないその笑顔で。  先生は――言った。 「この反面教師の最後の授業は――これで、終わりだ。  後を、頼む。これは――宿題だ」 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  光が消える。  そこには何も無かったかのように。  戦いの傷跡すら――残されてはいなかった。時間の修復力、と いう奴なのか。ともあれ、これで終わった。いや――違う。最後 にやるべきことがまだ残っている。  メフィストフェレスの左手にある永劫機コーラルアークの核。  その中の砂時計のガラスが砕け散る。  それで終わり。  捧げられた生贄は元に戻る。  そして――あとは、交わされた契約どおりに。  本来、残された時間が少なかった時坂一観。  神が定めた運命とでもいうべきか。死すべき定め。意味の無い 仮定だが、先生の言ったとおり――コーラルに捧げられずとも、 一観の命は何らかの形で尽きていただろう。交通事故か。それと も殺人事件か。あるいは、化け物に襲われたか。  それが運命。  そのはずだった。  それを覆すために――メフィストフェレスは契約を果たす。果 たしてくれる。  俺もこれで――約束を果たせるんだ。  そう。時坂祥吾《このおれ》の残された時間を、    一観へと――――捧げる。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「……」  病院のベッドで、この俺こと時坂祥吾は目を覚ます。  目を覚まして最初に思ったことが、「ありえない」という事だ った。  自分の残り時間は、妹へと渡されたはず。彼女を助けるために 自分はそれを選んだ。それが俺の責務だったから。妹を守るとい う、約束だったから。  自己満足で偽善、ただの欺瞞だと罵倒されようとも、それがい いと思った。  だが、こうして自分は生きている。  何故だ?  まさか―― 「念のために言っておくと。ちゃんと貴方の妹は生きてますよ。 無事です」  ベッドの傍らから声がかかる。 「めふぃ……?」 「はい。貴方の伴侶のように、召使のように、あるいは奴隷のよ うに仕えるメフィストフェレスでございます」  おどけたように笑う少女。  確かにそうだ。違うのは、今までは頭の中に響く、夢の中の存 在だった彼女が実体化しているということ。 「契約を交わしましたから」 「そうか」  そう相槌を打つ。 「……思い出した。結局、契約しちまったんだなあ」 「はい。ちなみにクーリングオフは効きません」  最悪だな、それ。 「……なんで俺は、ここにいる?」 「私が望みました」 「……どういうことだ?」 「私が生まれてから、十年。その間に何人も所有者が変わりまし た。誰も彼もが、自らの望みだけを願った」  遠い目をして、窓から外を見る。  死にたくないと、誰かの時を奪ったり。  何かが欲しいと、誰かが欲しいと。  時を止めその中で欲望を満たした。あるいは満たそうとした。  そして、みな例外なく、自滅していった。  それを自分は、ただ見続けていたとメフィは語る。 「……その中で。誰かのために、自分の時間を渡すなんていう人 は初めてでした」  後先考えない自己犠牲だと、ただの偽善で欺瞞だと笑う人もい るだろう。実際に、愚かとしか言いようが無いのは事実だ。  それで死んでしまえば何にもならないだろう。  賢い人は、そうやって理屈で武装する。そして正しい選択を選 ぶだろう。だが、それは本当に正しい答えなのだろうか?  多分、その答えは永遠に出ない。人それぞれ、なのだから。  そして――今まで彼女が見続けてきた人間は、皆一様に賢かっ たのだ。俺と違って。  理屈も計算もかなぐり捨てた愚直な選択をした大馬鹿者はいな かった。まあ当然だろう。 「だから、興味を持っただけです。だから」  一呼吸おいて、彼女は言った。 「貴方の時間が尽きる直前。  その「生命としての時間」を止めました」 「な……!?」  何だそれは。時間を止めた……? 「死へと向かうその時のみを堰き止める。  肉体はそのまま、代謝も続けるのでそれ別に不死の法でもなん でもありませんけど」  体を、存在そのものの時間を止めてしまえば、なるほど確かに 死ぬことは無いが、生きてもいない。  それでは意味が無い。  だから、生命としての時の流れを堰き止める。  物質としての肉体の時間はそのまま流れるので、成長・老化も すれば、破壊だってされる。  時間を止めたからといって、人間の追い求めた「都合のいい不 老不死」などは難しいということだ。  これもまた、永劫機の廃棄決定の理由のひとつであることは、 また別の話ですが、とメフィは付け加える。 「だったら、それを最初から一観にしてくれれば……」 「契約者にしか効きませんから」 「……そうか」 「そうです」  それで会話がひとまず途切れる。  俺はベッドに横たわったまま、天井を見る。 「俺の……せい、なのかな」  俺は、ぽつりと言った。  気にするな、お前のせいじゃない、と言い残し、先生は消えた。  いなくなったんだ。 「何が、正しかったのかな」 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  先生は、俺に対して、間違ってないと言ったけど。  最後に、先生の記憶に、時間に触れてしまった俺には――判ら なくなった。  どんな犠牲を強いても、人々を守るために戦う。  先生は、まず自分を犠牲にした。そして自分に残された時間が ないと知ると、今度は他人に犠牲を求めた。  それを、単純な悪の一言で否定できるのだろうか。糾弾できる のだろうか。  俺には――判らない。  手段は確かに間違っていた。だが先生の戦いで救われた人々は 先生の所業を英雄的だと賞賛するかもしれない。  事実として、数で言えば、救われた人のほうが圧倒的に多いの だから。  それを、妹を守るという理由で食い止め、先生を死なせた俺は ――悪党なのかもしれない。  わからない。  俺には、よくわからない。 「わかりません」  人間の事は、とメフィストは続ける。 「そうか」 「はい」  しばらく静寂が訪れる。  それでも。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  ……わからなくても、それでも……俺の答えは決まっている。 「……俺、さ。戦うよ」  そして、しばらくして祥吾が言った。 「先生のやったことは許せない。許しちゃいけないと思う。  だけど、それでも……吾妻先生が、この世界を守ろうとしたこ とは、変わりが無い」  どれだけ磨耗して疲れ果て、見失い、凶事と暴走に走っても。  それでも彼は守ろうとした。そして戦ってきた。守ってきた。 「俺は、忘れない」  何を守りたかったか。  何のために、戦ったか。そして、戦おうと決意したか。  その理由は、もう喪われてしまった。だけど、想いは、その行 動は消えはしない。  永遠が存在するとしたら、それはきっと、そういった――受け 継がれる何か。  それを、俺は受け取っていく。そして、受け渡していく。  切なる想いも、猛き激しさも。その正しさも、過ちも、その全 てを。 「ご随意に。私は、ついていきます」 「そうか」 「はい」  簡潔に、しかし強く答えるメフィ。  不思議と、その瞳にはあの時のような諦観の翳りは見えない、 と俺は感じた。  それは気のせいなのだろうか。それとも。  その紫水晶の瞳を覗き見る俺に、メフィは気づく。  固まる。  俺達はしばらく見詰め合う。  そして―― ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  どたどたと廊下から足音が聞こえてきた。その足音の主は、勢 いよく、 「お兄ちゃんっ!」  盛大にドアをあけて、一観が駆け込んできた。  その後ろには、鶴祁先輩もいる。 「ちょ、おま、ここ病院……」 「びっくりしたよっ! そんな大怪我、もう何したのっ!?  ていうか何っ!? なんでそんな見つめあってるの?  つーかその人誰っ!?」 「……これは、お邪魔だったかな?」 「え、いや違先輩っ、これはっ」  そして気がついたら、メフィの姿は消えていた。  ……バックレやがった、あの悪魔! 「お兄ちゃんっ! 説明求むっ!!」  言いながら体当たりしてくる。  頭がみぞおちに一撃。  骨や肉に伝わる衝撃。  声も出ぬほどの痛み。悶絶。  これが、これこそが愛の一撃。 「〜〜〜〜〜ッッッッ!!!!!!」  この俺こと。時坂祥吾は、間が悪かった。  了