承知いたしました。「婚約破棄させてもらう! 理由は言わなくてもわかっているな?」という台詞から始まる、10万トークン以上の長編小説を執筆します。壮大な物語になるため、章ごとに分割して紡いでまいります。 まずは、物語の始まりである序章からお読みください。 *** ### **『偽りの聖女と忘れられた王女』** **序章:断罪の夜会** 王宮のシャンデリアが放つ光は、まるで砕け散った星々を天井に撒き散らしたかのようで、磨き上げられた大理石の床に踊る貴族たちの華やかな衣装をきらびやかに照らし出していた。クラインフェルト王国建国記念を祝う夜会は、その熱気が最高潮に達しようとしていた。人々は美酒に酔い、軽やかな音楽に身を任せ、束の間の平和を謳歌している。 その輪の中心にいるのは、もちろんこの国の未来を担うべき若き獅子、王太子レオナルド・フォン・クラインフェルトと、その隣に咲く一輪の花、公爵令嬢アリアンナ・フォン・エルスハイムだった。 燃えるような赤毛に、強い意志を宿した琥珀色の瞳を持つレオナルド。陽光を紡いだかのような金色の髪に、穏やかな空色の瞳を持つアリアンナ。二人が並び立つ姿は、誰もが認める理想の対であり、王国の輝かしい未来そのものだと信じられていた。少なくとも、数ヶ月前までは。 音楽がふと、途切れた。 会話の喧騒が波のように引いていく。何事かと視線が集まる先で、レオナルドがアリアンナの腕を掴んでいた。その表情は、祝いの席にふさわしくない、氷のような冷たさを湛えている。 「アリアンナ」 低く、抑揚のない声がホールに響く。アリアンナは不思議そうに彼を見上げた。いつもなら優しく名を呼ぶその唇が、今は憎しみを刻むかのように固く結ばれている。 「レオナルド様、どうかなさいましたの?」 彼女の穏やかな問いかけが、彼の怒りの導火線に火をつけたようだった。レオナルドは掴んだ腕に力を込め、アリアンナの顔をぐいと引き寄せる。彼女の空色の瞳に、驚きと困惑の色が浮かんだ。 そして、その言葉は雷鳴のようにホールに轟いた。 「婚約破棄させてもらう! 理由は言わなくてもわかっているな?」 時が、止まった。 楽団員は楽器を構えたまま凍りつき、談笑していた貴族たちは息を呑み、給仕をしていた侍従たちは皿を落としそうになるのを必死でこらえた。すべての視線が、嘲笑が、憐憫が、好奇が、刃となってアリアンナに突き刺さる。 アリアンナは、一瞬、言葉の意味を理解できなかった。婚約破棄? 誰が、誰と? 私と、レオナルド様が? なぜ? 彼女の唇が、か細く動く。 「……理由が、わかりません。レオナルド様、何か誤解が」 「誤解だと?」レオナルドは吐き捨てるように言った。「まだ白を切るつもりか! その澄ました顔の裏で、どれほど醜いことをしてきたか、忘れたとは言わせんぞ!」 彼の怒声に、人垣が割れた。その向こうから、一人の少女が、まるで怯える小動物のように現れる。 黒髪に黒い瞳。この国では珍しいその容姿は、彼女が異世界からの来訪者であることの証。小柄で華奢な身体を震わせ、大きな瞳には涙をいっぱいに溜めている。 聖女、リリア。 三ヶ月前、突如として王宮の召喚陣に現れた、聖なる力を持つとされる少女。彼女の出現は、長引く干ばつと魔物の活性化に悩む王国にとって、まさに神の恩寵とされた。 リリアはレオナルドの背に隠れるようにして、アリアンナを恐ろしげに見つめている。その潤んだ瞳が、雄弁に何かを訴えかけていた。 「リリア、もう大丈夫だ。私が君を守る」 レオナルドは振り返り、リリアの肩を優しく抱いた。その声色は、先ほどアリアンナに向けられたものとは天と地ほども違う、慈愛に満ちたものだった。そして、彼は再びアリアンナに向き直り、断罪の言葉を続ける。 「アリアンナ・フォン・エルスハイム! 貴様は、聖女リリア様に対して、嫉妬心から数々の嫌がらせを行った! 彼女の教科書を隠し、ドレスを汚し、あまつさえ、この夜会の直前には階段から突き落とそうとまでした! 幸い、リリア様は私の護衛騎士が発見し事なきを得たが、貴様の悪行、断じて許すことはできん!」 ホールが、再びどよめいた。聖女様になんてことを。やはり、あの公爵令嬢は嫉妬に狂っていたのだ。そんな囁きが、悪意の波となってアリアンナに押し寄せる。 アリアンナは、目の前で繰り広げられる茶番に、ただ呆然と立ち尽くしていた。教科書を隠す? ドレスを汚す? 階段から突き落とす? どれ一つとして、身に覚えがない。あまりに稚拙で、馬鹿馬鹿しい言いがかりだった。 「お待ちください、レオナルド様。それはすべて、事実無根です。私がそのようなことをするはずがございません」 彼女は背筋を伸ばし、毅然として反論した。エルスハイム公爵家の令嬢としての誇りが、彼女にそうさせた。ここで泣き崩れることは、罪を認めることと同じだ。 「証拠はあるのか!」レオナルドが叫ぶ。 「証拠なら、ここに!」 リリアがおずおずと一歩前に出た。彼女は涙声で、しかしはっきりとした声で言った。 「私が……私が、証拠です。アリアンナ様は、いつも私のいないところで、私にだけ聞こえるように、おっしゃいました。『平民上がりの偽物聖女が、調子に乗るな』と……。私がレオナルド様とお話ししていると、いつも怖い顔で睨んで……。階段では、『あなたさえいなければ』と、確かにそうおっしゃって、私を……!」 そこまで言うと、リリアは感極まったように顔を覆い、嗚咽を漏らした。その姿は、いかにもか弱く、庇護欲を掻き立てるものだった。 貴族たちの同情は、完全にリリアへと注がれた。ああ、可哀想な聖女様。異世界から我々のために来てくださったというのに。 対して、アリアンナに向けられるのは、冷え冷えとした侮蔑の視線だ。 「……嘘です」 アリアンナの声は、静かだったが、ホール中に響き渡った。 「私は、そのような言葉を口にしたことは一度もございません。聖女リリア様、なぜ、そのような偽りを……」 「まだ言うか!」レオナルドの我慢は限界に達していた。「リリア様は、お優しい方だ。君が反省する機会を与えるために、これまでずっと耐えてこられた。だが、今日のことで、もうこれ以上、君の邪悪な心根を放置することはできないと判断されたのだ!」 「邪悪、ですって……?」 アリアンナは、自嘲の笑みを浮かべた。長年、婚約者として隣に立ち、共に王国の未来を語り合ってきた男が、今、自分を「邪悪」と断じている。彼の琥珀色の瞳には、かつての信頼や愛情の欠片も見当たらない。あるのは、見ず知らずの少女への盲目的な庇護と、自分への絶対的な不信だけだ。 ああ、そうか。この人はもう、私の言葉など聞く気はないのだ。 彼はもう、真実など求めてはいない。彼が欲しいのは、聖女を虐げる「悪役」であり、その役を私に押し付けたいだけなのだ。 アリアンナは、掴まれた腕を振り払った。レオナルドが驚いて一歩後ずさる。 彼女はもはや弁明しなかった。ただ静かに、その場にいるすべての人間を見回した。父と母が、青ざめた顔でこちらを見ている。エルスハイム公爵家の名を汚すなという、無言の圧力が伝わってくる。他の貴族たちは、興味本位に、あるいは嘲笑を浮かべて、この劇的な場面を楽しんでいる。 そして、彼女はレオナルドの目を、真っ直ぐに見据えた。空色の瞳は、涙に濡れることなく、冬の湖面のように静まり返っていた。 「……承知、いたしました。王太子殿下のご命令とあらば、このアリアンナ・フォン・エルスハイム、謹んで婚約破棄をお受けいたします」 その凛とした態度が、逆にレオナルドを苛立たせた。彼は、彼女が泣いて許しを乞う姿を想像していたのかもしれない。 「ふん、反省の色なしか。よかろう。アリアンナ・フォン・エルスハイム! 貴様を、聖女への不敬罪および王家への反逆未遂の罪で、公爵令嬢の位を剥奪の上、国外へ追放する! エルスハイム公爵家も、監督不行き届きの責を問い、領地を半減、一年間の王宮への出入りを禁ずる!」 あまりに重い処分に、ホールが再び騒然となる。公爵家の当主であるアリアンナの父が、血の気の引いた顔で前に進み出ようとするのを、母が必死で押しとどめていた。 追放。その言葉が、アリアンナの胸に重くのしかかる。生まれ育ったこの国を、愛する家族を、全てを捨てて去れというのか。 だが、彼女はもはや何も言わなかった。言うべき言葉は、もうない。 彼女は、最後にリリアを一瞥した。リリアはレオナルドの腕の中で、勝利を確信した笑みを、一瞬だけ、唇の端に浮かべた。アリアンナだけが見抜ける、微かな、しかし残酷な笑みを。 (……そういうこと、でしたか) すべてを悟ったアリアンナは、ゆっくりと踵を返した。誰の助けも借りず、ただ一人、シャンデリアの光が届かない闇へと、背筋を伸ばしたまま歩き去っていく。 その背中は、あまりに孤独で、しかし、決して折れることのない誇りに満ちていた。 これは、不当にすべてを奪われた令嬢が、自らの手で真実と名誉を取り戻し、偽りの聖女と腐敗した王国に立ち向かう物語。 断罪の夜会は、終わりではない。 本当の物語の、始まりに過ぎなかった。 --- ***第一部:追放と出会い*** --- ### **第一章:失われた光と、始まりの道** 王宮の壮麗な扉が背後で閉ざされる音は、アリアンナの世界が終わった音のように聞こえた。光と喧騒に満ちた夜会のホールから一歩外に出ただけで、彼女は社会的に死んだ。もはや公爵令嬢アリアンナ・フォン・エルスハイムではなく、ただの罪人アリアンナだった。 護衛の騎士たちが、無言で彼女を取り囲む。彼らの視線には、かつての敬意はなく、冷たい侮蔑と、面倒な厄介者を見るような色が混じっていた。 「こちらへ」 短い命令と共に、彼女は夜会の会場とは反対の、薄暗い裏手の通路へと導かれた。豪華なドレスは、石造りの冷たい壁に擦れて、彼女の心と同じようにささくれ立っていく。 連れて行かれたのは、普段は使用人くらいしか使わない、簡素な一室だった。そこには、旅支度であろう粗末な麻の服と、小さな革袋が一つ、無造 অবলম্বনに置かれている。 「三日後、夜明けと共に王都を発て。これは王命である。追放先は東の辺境、ヴァイスフェルダーの村だ。それまでの間、貴様はこの塔の一室に軟禁する。エルスハイム公爵家との面会は、一切許されん」 騎士の一人が、事務的に告げる。その言葉には一片の同情もなかった。 「……一人だけ、同行を許される者はおりますか?」 アリアンナは、かろうじてそれだけを尋ねた。声が震えなかったのは、奇跡に近い。 騎士は少し考えた後、面倒くさそうに答えた。 「……護衛として一人だけならば、許可しよう。ただし、その者もまた、二度と王都の土を踏むことは許されん。それでもよければ、人選を申し出ろ」 「カインを」 アリアンナは、迷わずその名を口にした。カイン・アーベントロート。エルスハイム公爵家に代々仕える騎士の家系の生まれで、幼い頃からアリアンナの護衛を務めてきた、忠実な青年だ。彼ならば、きっと。 騎士は鼻で笑った。 「あの若さで将来有望な騎士が、追放される罪人に付き従うものか。別の者を考えろ」 「いいえ、彼を呼びつけてください。彼が断るのであれば、その時は一人で参ります」 アリアンナの揺るぎない瞳に、騎士は一瞬たじろいだが、やがて部下の一人に目配せした。 しばらくして、扉が開き、長身の青年が入ってきた。夜色の髪に、静かな森の湖を思わせる深い翠の瞳。カインだった。彼はアリアンナの前に進み出ると、周囲の目も憚らず、静かに片膝をついた。 「アリアンナお嬢様。お呼びと聞き、参上いたしました」 その声には、以前と何ら変わらぬ敬意が込められていた。 「カイン……」アリアンナの声が、わずかに潤んだ。「状況は、聞きましたか?」 「はい。ホールでの一部始終、聞き及んでおります」 「私は、国外追放となりました。あなたにまで累が及ぶのは本意ではありません。ですが……もし、もし許されるのなら、私の旅に、同行してはくれませんか? これは命令ではありません。私個人の、最後の我儘です。断ってくれて、構わない」 それは、あまりに酷な願いだった。輝かしい未来を捨て、罪人の烙印を押された主人と共に、希望のない辺境へ行けというのだから。 しかし、カインは顔を上げることなく、即座に答えた。 「お嬢様の行くところ、どこへなりともお供するのが、私の役目。このカイン・アーベントロート、我が剣と命に懸けて、お嬢様をお守りいたします」 迷いのない声だった。 アリアンナの瞳から、その日初めて、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは絶望の涙ではなかった。暗闇の中に差し込んだ、たった一つの、温かい光への感謝の涙だった。 「……ありがとう、カイン」 その日から三日間、アリアンナは古い塔の一室で過ごした。窓には鉄格子がはめられ、食事は粗末なものが扉の下から差し入れられるだけ。昨日までの生活が、まるで遠い夢のようだ。 彼女はただ、窓から見える空を眺めていた。王都の空は、彼女がこれから向かうであろう辺境の空と、同じ色をしているのだろうか。 父と母は、今どうしているだろう。領地を半減され、貴族社会からの信用も失墜したに違いない。自分のせいで、家族にまで塗炭の苦しみを味あわせてしまった。その罪悪感が、鉛のように胸に沈む。 レオナルドのことも考えた。なぜ、彼はあんなにも簡単に変わってしまったのか。幼い頃、木から落ちた自分を、怪我も顧みずに助けてくれた彼。政治のことで悩む自分に、「君は一人じゃない」と励ましてくれた彼。あの優しさは、すべて偽りだったのだろうか。 いや、違う。彼はきっと、リリアという存在に眩惑されているだけだ。聖女という抗いがたい権威と、彼女の巧みな演技に。いつか、彼は真実に気づくだろう。だが、その時、自分はもうこの国にはいない。 絶望が、波のように何度も押し寄せる。しかし、アリアンナは歯を食いしばって耐えた。泣かない。ここで心を折られてはいけない。カインが、私を信じてついてきてくれるのだ。家族の名誉を、いつか必ず取り戻さなければならない。そして、私を陥れた者たちに、真実を突きつけなければ。 三日目の夜明け前、アリアンナは用意された麻の服に着替えた。上等な絹のドレスに慣れた肌には、ごわごわとして心地悪かったが、不思議と心は落ち着いた。豪華な装飾品はすべて取り上げられ、彼女が持っていくことを許されたのは、革袋に入ったわずかな金貨と、母がこっそりと差し入れてくれた、小さな薬草の包みだけだった。 塔の下には、カインが馬を一頭引いて待っていた。彼もまた、公爵家の紋章が入った豪奢な騎士服を脱ぎ、旅人らしい革鎧とマントを身につけている。 「お嬢様、準備はよろしいですか?」 「ええ」 アリアンナは頷き、カインの助けを借りて馬の鞍に跨った。彼女が一人で乗るには少し大きな馬だった。 夜明け前の薄闇の中、二人は誰にも見送られることなく、静かに王都の門をくぐった。門番は、彼らが誰であるかを知っていながら、侮蔑の視線を隠そうともしなかった。 王都を抜け、街道に出る。振り返ると、朝靄の中に王城の白い尖塔が霞んで見えた。あの場所で生まれ、育ち、愛を誓い、そして裏切られた。万感の思いが込み上げてくるが、アリアンナは唇を固く結び、前だけを見据えた。 旅は、過酷なものだった。 道中、彼らの素性を知る者たちからは、石を投げつけられることもあった。宿屋では宿泊を拒否され、野宿を余儀なくされる夜も少なくない。カインが狩ってきた兎を焚き火で焼き、硬いパンを分け合って食べる。泥にまみれ、雨に打たれ、日に焼かれ、アリアンナの白い肌は見る影もなくなった。 しかし、彼女は一度も弱音を吐かなかった。むしろ、これまでの人生で知らなかったことを、日々学んでいた。火の起こし方、水場の見つけ方、食べられる野草の見分け方。カインは、サバイバルの知識にも長けていた。 「カインは、すごいわね。何でも知っているのね」 ある夜、焚き火の前でアリアнナが感心したように言うと、カインは少し照れたように頬を掻いた。 「騎士学校では、こういう訓練もいたしますので。いつ、いかなる状況でも、主君をお守りせねばなりませんから」 彼の言葉が、アリアンナの胸を温かくした。 旅を始めて一月が過ぎる頃には、二人はクラインフェルト王国の中心地から遠く離れ、東の辺境領へと足を踏み入れていた。道は険しくなり、人の気配もまばらになる。時折、街道の脇に、魔物に襲われたのであろう荷馬車の残骸が転がっていた。 「ヴァイスフェルダーの村は、もうすぐです」 カインが地図を確認しながら言った。その村は、「忘れられた森」と呼ばれる広大な森の入り口に位置する、寂れた開拓村らしい。 そして、ついに二人の目の前に、その村が見えてきた。数軒の粗末な木造家屋が、力なく点在している。畑は痩せ細り、村人たちの顔には活気がない。まるで、世界から見捨てられたような場所だった。 ここが、私の新しい住処。 アリアンナは馬を止め、その光景を静かに見つめた。絶望するには十分な景色だったが、彼女の心は不思議と凪いでいた。 失われた光は、もう戻らない。ならば、この場所で、新しい光を、自分自身の手で見つけるしかない。 「さあ、行きましょう、カイン」 アリアンナは、自らを鼓舞するように言った。 「私たちの新しい生活が、ここから始まるのよ」 その声には、公爵令嬢の面影はもはやなく、厳しい現実を生き抜こうとする、一人の女性の強さが宿っていた。 --- ### **第二章:辺境の暮らしと森の魔術師** ヴァイスフェルダーの村での生活は、アリアンナが想像していた以上に厳しいものだった。 村長は、王家からの通達で彼らが罪人であることを知っており、あからさまに厄介者扱いをした。与えられたのは、村の外れにある、打ち捨てられて久しい小さな小屋だった。屋根には穴が開き、壁の隙間からは風が吹き込む。それでも、雨風をしのげるだけましだった。 村人たちの視線も冷たかった。彼らは王都の華やかな世界とは無縁で、日々の暮らしに追われている。そんな彼らにとって、元貴族のアリアンナは異質な存在であり、自分たちの平穏を乱しかねない不吉の象徴でしかなかった。 「お嬢様、ここは私に」 カインは文句一つ言わず、小屋の修理から薪割り、水汲みまで、力仕事を一手に引き受けた。彼の献身がなければ、アリアンナは初日で音を上げていたかもしれない。 しかし、アリアンナもただ守られているだけの存在ではいたくなかった。彼女は、自分にできることを探し始めた。持参したわずかな金貨で最低限の食料と生活用品を買い揃えたが、それもすぐに底をつくだろう。自分たちの手で、生きていく術を見つけなければならない。 彼女が目をつけたのは、母が持たせてくれた薬草の包みだった。幼い頃から、公爵家の庭で薬草を育て、その効能を学ぶのが好きだった。貴族の令嬢の嗜みとしては少し変わっていたが、その知識が今、役に立つかもしれない。 アリアンナは、小屋の周りの土地を耕し始めた。初めは、土に触れることさえおぼつかなかった。爪は割れ、手のひらは豆だらけになった。村の子供たちが、遠巻きにして彼女を指さして笑う。 「見て、お姫様が泥んこになってる」 その声に、心がちくりと痛んだ。だが、アリアンナは手を止めなかった。カインが作ってくれた粗末な鍬を握りしめ、黙々と土を耕し続けた。 やがて、彼女の小さな畑には、母から譲り受けた種と、森の浅瀬で見つけた薬草が根付き始めた。傷に効く薬草、熱を下げる薬草、胃の不調を和らげる薬草。彼女はそれらを丁寧に育て、乾燥させ、調合した。 ある日、村長の孫が熱を出して寝込んだ。村には医者などおらず、村人たちはただ神に祈るしかなかった。アリアンナは躊躇したが、カインに背中を押され、自分が調合した解熱作用のある薬草を煎じて村長の家を訪ねた。 「罪人の得体の知れない薬など飲ませられるか!」 村長は、最初は彼女を追い返そうとした。しかし、孫の苦しそうな息遣いに、藁にもすがる思いでそれを受け取った。 翌日、子供の熱は嘘のように下がっていた。 その出来事をきっかけに、村人たちのアリアンナを見る目が、少しずつ変わり始めた。初めは半信半疑だったが、怪我をした者に傷薬を渡したり、腹痛を訴える者に薬湯を分け与えたりするうちに、彼女の作る薬が本物であることが知れ渡っていった。 人々は、物々交換で彼女の薬を求めるようになった。パンと薬草を、野菜と軟膏を。アリアンナは初めて、自分の力で生きる糧を得た。それは、王宮で与えられていたどんな宝石よりも、価値のあるものに感じられた。 彼女はもはや「罪人アリアンナ」ではなく、「薬師のアリア」として、少しずつ村に受け入れられていった。笑顔を交わすことも増え、泥だらけの彼女を笑う子供もいなくなった。 そんな穏やかな日々が続き、季節が夏から秋へと移り変わろうとしていた頃、事件は起きた。 より質の良い薬草を求め、アリアンナはいつもより少しだけ深く、「忘れられた森」へと足を踏み入れてしまったのだ。カインは村の男たちと狩りに出ており、一人での行動だった。 その森は、不気味なほど静かだった。陽光は鬱蒼と茂る木々の葉に遮られ、昼なお暗い。足元には湿った落ち葉が積もり、歩くたびにカサリと音を立てる。珍しい薬草を見つけることに夢中になるうち、彼女は自分が道に迷ってしまったことに気づいた。 焦りが胸をよぎった、その時。 ガサッ、と背後の茂みが大きく揺れた。振り返ると、そこにいたのは巨大な牙を持つ猪、森の主とも呼ばれる魔物「レイザーボア」だった。血走った目でアリアンナを睨みつけ、荒い鼻息を立てている。 (……まずい!) アリアンナは腰に提げた護身用の短剣を抜いたが、こんなもので巨大な魔物に太刀打ちできるはずもない。絶体絶命だった。 レイザーボアが、地面を蹴って突進してくる。アリアンナは死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた。 しかし、衝撃はいつまでたってもやってこない。恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。 アリアンナと魔物の間に、半透明の、青白い光の壁が出現していたのだ。突進してきたレイザーボアは、その壁に激突し、弾き飛ばされている。 「……え?」 何が起こったのかわからず呆然とするアリアンナの耳に、のんびりとした、どこか皮肉めいた声が届いた。 「やれやれ。俺の庭で、随分と賑やかなことをしてくれる」 声のした方を見上げると、太い木の枝に、一人の男が腰掛けていた。 銀色の髪が、木漏れ日を浴びてきらきらと輝いている。深く、吸い込まれそうな紫色の瞳。年齢は、アリアンナやレオナルドより少し上だろうか。黒を基調とした、旅人のようにも、学者のようにも見える不思議な服を身にまとっている。その佇まいは、辺境の森にはあまりに不釣り合いだった。 男は枝から軽やかに飛び降りると、何事もなかったかのようにアリアンナに近づいてきた。弾き飛ばされたレイザーボアは、彼を恐れるようにして、森の奥へと逃げていく。 「怪我は?」 男が尋ねる。アリアンナは、まだ心臓が激しく波打つのを感じながら、かろうじて首を横に振った。 「……あの、あなたが、助けてくださったのですか? 今の光の壁は……」 「まあ、そんなところだ」男は気のない返事をすると、興味深そうにアリアンナを頭のてっぺんからつま先まで眺めた。「それより、あんたの方こそ何者だ? こんな森の奥まで、薬草摘みかい? 不用心にも程がある」 「私は、アリア……。近くの村の者です」 「アリア、ね」男は面白そうにその名を繰り返し、ふと、アリアンナが落とした薬草の籠に目を留めた。「ほう、これは月雫草(げってきそう)か。それに、竜胆根(りゅうたんこん)も。素人が摘むような薬草じゃない。あんた、なかなか見どころがあるな」 薬草の名を正確に言い当てられ、アリアンナは驚いた。 「あなたも、薬師か何かですか?」 「薬師、か。まあ、似たようなものだ」男は肩をすくめ、悪戯っぽく笑った。「俺はゼノン。この森の奥で、気ままに魔法の研究をしている、ただの魔術師さ」 魔術師。その言葉に、アリアンナは息を呑んだ。 王国の魔法アカデミーで体系化された魔法とは違う、個人で魔法を研究する者を、人はそう呼んだ。その多くは、変わり者か、あるいは禁忌に触れた危険人物だとされている。 ゼノンと名乗る魔術師は、そんなアリアнナの警戒心を見透かしたように、紫色の瞳を細めた。 「そんなに怯えなくても、取って食ったりはしないさ。それより……」 彼は一歩アリアンナに近づき、彼女の顔を覗き込んだ。その紫の瞳が、まるで彼女の魂の奥底まで見通すかのように、じっと見つめてくる。 「あんた、面白いものを持ってるな。自分じゃ気づいてないみたいだが」 「……面白いもの?」 「ああ。あんたの内側で、とんでもないものが眠ってる。澱んだ泥水の中に、輝く宝石が沈んでいるような……そんな感じだ」 ゼノンの言葉の意味が、アリアンナにはまったく理解できなかった。彼女の魔力は、貴族としてはごく平均的なもので、特別な力など持っているはずがない。 「何をおっしゃっているのか……」 「今はわからなくていいさ」ゼノンは興味深そうに口の端を上げた。「なあ、アリア。退屈しのぎに、俺のところへ来てみないか? あんたが持ってる『それ』の、磨き方を教えてやる。もちろん、見返りはきっちり貰うがね」 それは、あまりに突飛な誘いだった。 しかし、アリアнナはなぜか、彼の紫色の瞳から目が離せなかった。 この出会いが、彼女の運命を、そして王国の未来さえも、大きく変えることになる。 まだ、彼女は知る由もなかった。 --- ### **第三章:古代魔法の目覚め** ゼノンの誘いは、怪しげで、あまりに唐突だった。常識的に考えれば、森の奥に住む素性の知れない魔術師の申し出など、断るのが賢明だろう。カインが聞けば、顔を真っ青にして止めるに違いない。 しかし、アリアンナの心は、奇妙なほどに惹きつけられていた。 『あんたの内側で、とんでもないものが眠ってる』 ゼノンの言葉が、頭から離れない。追放され、すべてを失ったと思っていた自分の中に、まだ何か価値のあるものが眠っているというのだろうか。それは、暗闇の中で見つけた一条の光のように、彼女の心を照らした。 「……あなたのところに、行きます」 気づけば、アリアンナはそう答えていた。 ゼノンは、満足そうに頷いた。 「話が早くて助かる。じゃあ、ついてきな」 彼は森の獣道でもない場所を、迷いなく進んでいく。アリアンナは必死でその後を追った。しばらく歩くと、鬱蒼とした木々が開け、小さな湖の畔に、古びた石造りの塔が姿を現した。蔦が絡まり、ところどころ崩れかけたその塔は、まるでおとぎ話に出てくる魔法使いの住処のようだった。 塔の内部は、外見の古めかしさとは裏腹に、驚くほど整然としていた。壁一面に、天井まで届く本棚が設えられ、膨大な数の書物がぎっしりと詰まっている。床には複雑な魔法陣が描かれ、テーブルの上には天球儀や水晶、怪しげな色の液体が入ったフラスコなどが雑然と、しかしある種の法則性を持って置かれていた。空気は、古い紙の匂いと、不思議な香草の匂いが混じり合った、独特の香りで満たされている。 「まあ、座れよ」 ゼノンに促され、アリアнナは年季の入った革張りの椅子に腰掛けた。彼は薬草茶のようなものを淹れてくれると、向かいの椅子にどさりと腰を下ろした。 「さて、どこから話したもんかね」彼は腕を組み、改めてアリアンナを観察するように見た。「あんた、王国の魔法アカデミーで教育を受けたクチだろ。火を起こしたり、水を操ったりする、あの形式的な魔法だ」 「ええ、一通りは。ですが、私の魔力はごく平凡なものでした」 「だろうな。あんたの才能は、そんな器には収まりきらない」ゼノンは断言した。「クラインフェルト王国の魔法は、言うなれば『契約の魔法』だ。精霊やマナに直接働きかけるのではなく、決められた呪文と手順(システム)を通して、魔法という現象を借りてくるだけ。誰でも扱えるように簡略化されてはいるが、力の源泉に直接触れることはない」 「……それが、普通なのだと教わりました」 「ああ、今の世の中ではな」ゼノンは本棚から、一冊の分厚い革張りの本を取り出した。「だが、もっと古い時代……神代の時代には、別の魔法体系が存在した。自然そのものと感応し、星の運行を読み、世界の理(ことわり)に直接干渉する魔法。人はそれを、『古代魔法』あるいは『精霊魔法』と呼んだ」 彼は本をテーブルの上に広げた。そこには、アリアンナが見たこともないような、複雑で美しい文様――古代ルーン文字が描かれていた。 「この魔法の使い手は、血筋によってその素質が受け継がれることが多い。そして、あんたはその稀有な血を引いている。おそらく、自分でも気づかないうちに、その力の片鱗を使ってきたはずだ」 「……まさか」 「薬草摘みはどうだ? 他の奴には見つけられないような珍しい薬草を、なぜかあんたは見つけることができる。違うか?」 言われて、アリアンナははっとした。確かに、そうだった。森に入ると、まるで薬草の方から「ここにいる」と呼びかけてくるような、不思議な感覚があった。 「それは……」 「あんたの力が、無意識に自然と感応し、植物の声を聞いていたからだ。さっきのレイザーボアの時もそうだ。俺が助ける直前、あんたの体から、微弱だが強烈な拒絶の魔力が放たれていた。だから魔物は一瞬怯み、俺が介入する隙ができた」 ゼノンの言葉に、アリアンナは自分の手のひらを見つめた。この手に、そんな力が? 「信じられないかもしれません。私は、エルスハイム公爵家の……」 「ああ、知ってるよ。元・公爵令嬢のアリアンナ・フォン・エルスハイム嬢だろ? 聖女様への嫉妬から、階段から突き落とそうとしたとかいう、くだらない罪状で追放された」 ゼノンは、こともなげに言った。アリアнナは驚いて顔を上げた。 「なぜ、それを……」 「俺を誰だと思ってる。この森の主みたいなもんだぜ。あんたたちがこの村に来た時から、とっくに気づいてたさ」彼は肩をすくめた。「まあ、あんたの過去には興味ない。俺が興味あるのは、あんたの中に眠る、その古代魔法の素質だけだ」 彼は立ち上がり、窓の外の空を見上げた。 「いいか、アリア。俺があんたに教えるのは、アカデミーの生温い魔法じゃない。世界の真理に触れる、危険で、そして強大な力だ。その力を磨けば、あんたは自分を守るどころか、運命さえも変えられるかもしれん。……だが、一歩間違えば、力に呑まれて破滅する」 彼の紫色の瞳が、真剣な光を宿してアリアнナを射抜く。 「それでも、あんたは力が欲しいか? すべてを失った今、あんたがその手で掴み取りたいものは何だ?」 アリアンナは、彼の問いに、自らの心の奥底を探った。 私が欲しいもの。掴み取りたいもの。 それは、復讐だろうか。自分を陥れたリリアと、信じてくれなかったレオナルドへの。 それとも、名誉の回復だろうか。地に落ちたエルスハイム家の誇りを取り戻すこと。 どちらも、そうだ。だが、それだけではない。 脳裏に浮かんだのは、痩せた土地で必死に生きるヴァイスフェルダーの村人たちの顔だった。自分を信じ、黙って支えてくれるカインの顔だった。そして、王都に残してきた、父と母の悲しげな顔だった。 「私は……」 アリアнナは、ゆっくりと、しかしはっきりとした声で言った。 「力が欲しいです。私の大切な人たちを、私自身の手で守れるだけの力が。そして、偽りに覆われた真実を白日の下に晒し、私の、そして私の家族の誇りを取り戻すための力が。そのためなら、どんな困難な道でも進んでみせます」 その答えを聞いて、ゼノンは初めて、満足そうに微笑んだ。それは、いつものような皮肉めいた笑みではなく、どこか穏やかな、本物の笑みだった。 「……合格だ。いい覚悟だ、アリア」 こうして、アリアнナの、魔術師ゼノンの下での修行が始まった。 それは、彼女がこれまで受けてきた教育とは、まったく異なるものだった。 最初の課題は、「森の声を聞く」こと。ただ静かに森の中に座り、目を閉じ、風の音、木の葉のざわめき、土の匂い、生き物の気配、その全てに意識を集中させる。最初は何も感じられなかったが、何日も続けるうちに、アローナは不思議な感覚を覚え始めた。木々が喜び、草花が歌い、水が囁いているような、そんな感覚。 次に、「星を読む」ことを教わった。夜、塔の屋上で天球儀を使い、星々の配置とその意味を学ぶ。星の光は、ただの光ではない。過去の出来事を記録し、未来の可能性を示唆する、巨大な魔法のタペストリーなのだとゼノンは言った。 そして、「マナを感じる」訓練。ゼノンはアリアンナを湖に連れて行き、彼女に水面に手を浸させた。 「水は、マナを最も伝えやすい媒体だ。世界の生命力の流れを感じろ。お前の体も、その流れの一部だ」 アリアンナが言われた通りに集中すると、手のひらから、温かい何かが体の中に流れ込んでくるのを感じた。それが、世界の生命力、マナだった。 修行は、地味で、忍耐のいるものばかりだった。だが、アリアンナは日に日に、自分の内なる何かが目覚めていくのを実感していた。世界が、以前とはまったく違って見えた。道端の石ころにも、空を流れる雲にも、大いなる意思と力が宿っているように感じられる。 カインは、アリアнナが森の魔術師の元へ通っていることを知り、最初は強く反対した。しかし、彼女の真剣な眼差しと、「これは私が自分の足で立つために必要なことなの」という言葉に、不安を抱えながらも彼女の意思を尊重することを選んだ。彼は、アリアнナが塔へ向かう日は、必ず森の入り口まで送り迎えをし、彼女の身を案じ続けた。 ある日、アリアнナはゼノンに問うた。 「ゼノン様は、なぜ私にここまでしてくださるのですか? 見返りを貰うとは、おっしゃっていましたが……」 ゼノンは、研究室で怪しげなポーションをかき混ぜながら、ちらりと彼女を一瞥した。 「言ったろ、退屈しのぎだって。それに……」 彼は手を止め、窓の外に広がる森を見つめた。 「古代魔法の血を引く者は、もうほとんど残っちゃいない。このままでは、大いなる知識が失われてしまう。それを次代に伝えるのは、俺のような好事家の、ささやかな使命ってやつさ」 彼の横顔は、どこか寂しげに見えた。 「それに、あんたが力をつければ、いずれ王国の歪みを正す駒の一つになるかもしれない。俺は、あの国がどうしようもなく腐っていくのを、ただ黙って見ているのは性に合わんのでね」 その言葉には、クラインフェルト王国に対する、単なる無関心ではない、何か深い感情が込められているようにアリアнナには思えた。 修行を始めて数ヶ月が経った冬の初め。アリアンナはついに、最初の古代魔法を発動させることに成功する。 それは、小さな種を、手のひらの上で一瞬にして芽吹かせ、花を咲かせるという魔法だった。アカデミーの魔法のように呪文を唱えるのではない。ただ、種に意識を集中し、自らの生命力(マナ)を注ぎ込み、咲き誇る花の姿を強くイメージするだけ。 彼女の手のひらの上で、可憐な白い花が咲いた時、アリアнナは息を呑んだ。それは、彼女が自らの意志で、世界の理に働きかけて生み出した、最初の奇跡だった。 「……すごい」 ゼノンが、珍しく素直な感嘆の声を漏らした。 「普通は、ここまで来るのに数年はかかる。あんた、とんでもない才能の塊だな」 アリアンナは、咲いたばかりの花を、愛おしそうに見つめた。 この小さな一歩が、やがて大きな運命の歯車を回し始める。 追放された令嬢は、今、忘れられた古代の力をその手に宿し、静かに覚醒の時を迎えようとしていた。 --- ### **第四章:王国の異変と偽りの繁栄** アリアンナが辺境の地で新たな力を覚醒させつつある頃、クラインフェルト王国の王都は、偽りの繁栄に沸いていた。 その中心にいたのは、言うまでもなく聖女リリアだった。 彼女の持つ強力な光の魔法は、奇跡と呼ばれた。長らく王国を苦しめていた干ばつは、リリアが祈りを捧げると、恵みの雨が降って大地を潤した。凶作に喘いでいた農村では、彼女が畑に立つだけで、作物が驚くべき速さで成長した。人々はリリアを「生ける女神」と崇め、彼女が通る道には、感謝と賞賛の声が溢れた。 「聖女様、万歳!」 「リリア様こそ、我らが救い主だ!」 王太子レオナルドは、そんなリリアの姿を、誇らしげに見守っていた。 アリアンナを追放した直後は、彼の心にもわずかな罪悪感がなかったわけではない。長年の婚約者を、あれほど無慈悲に断罪してしまったのだから。だが、リリアが次々と起こす奇跡を目の当たりにするうちに、その罪悪感は、自分の決断が正しかったのだという確信へと変わっていった。 (やはり、私の判断は間違っていなかった。アリアンナのような、嫉妬深く心の狭い女では、王太子妃は務まらなかったのだ。国を、民を救えるのは、清らかな心を持つリリアしかいない) レオナルドは、リリアを影に日向に支えた。彼女が快適に過ごせるよう、王宮内に豪華な離宮を用意し、身の回りの世話をする侍女たちを何十人もつけた。高価なドレスや宝石を惜しみなく贈り、夜会や式典では、常に彼女を隣に座らせた。その寵愛ぶりは、かつてのアリアнナに対するそれを、遥かに凌ぐものだった。 リリアは、その寵愛を一身に受け、異世界での生活を心から楽しんでいた。 元の世界では、彼女はごく平凡な女子高生だった。特別な才能もなく、容姿も人並み。誰もが自分に注目してくれる今の状況は、彼女にとって夢のようだった。王太子は優しく、貴族たちは傅き、民衆は自分を崇拝する。これ以上の幸せがあるだろうか。 アリアンナを陥れたことに対する罪悪感は、とうに薄れていた。むしろ、自分の幸せのためには、当然の選択だったとさえ思っていた。アリアнナがいたままでは、自分が王太子の隣に立つことはできなかったのだから。 「リリア様、本日のご祈祷、まことにお見事でございました。あのお力があれば、我が国の安寧は永久に続くことでしょう」 宰相ヴァルモンが、油のような笑みを浮かべてリリアに媚びへつらう。彼は、アリアンナ追放劇の黒幕の一人であり、リリアを政治の道具として利用している張本人だった。 「宰相様、お褒めにあずかり光栄ですわ」 リリアは、純真な少女のように微笑んでみせた。しかし、その瞳の奥には、したたかな計算が隠されている。彼女は、ヴァルモンが自分を利用していることにも、薄々気づいていた。だが、利害が一致している限り、彼と手を組むことに何の躊躇もなかった。 ヴァルモンは、聖女リリアという絶大な権威を後ろ盾に、王宮内での権力をますます強固なものにしていた。国王は病床に伏しがちで、王太子レオナルドはリリアに心酔している。今や、この国の政治を実質的に動かしているのは、ヴァルモンだった。彼は、リリアの奇跡を利用して民衆の支持を集め、自分に反対する勢力を次々と排除していった。 アリアнナの実家であるエルスハイム公爵家も、その標的の一つだった。領地を半減されただけでなく、ヴァルモン派の貴族たちから事あるごとに嫌がらせを受け、その権威は地に落ちていた。アリアンナの父、エルスハイム公爵は、悔しさに歯噛みしながらも、今は耐えるしかないと、じっと雌伏の時を過ごしていた。 しかし、その偽りの繁栄の裏で、王国は静かに、しかし確実に蝕まれ始めていた。 異変は、まず辺境の地から現れた。 聖女の祈りによって一時的に潤ったはずの大地が、以前にも増して急速に枯れ始めたのだ。作物は育たなくなり、井戸はことごとく枯れ果てた。まるで、土地そのものが生命力をすべて吸い取られてしまったかのようだった。 やがて、その現象は王都に近い豊かな土地にも広がり始めた。 さらに、原因不明の奇病が、各地で流行りだす。それは、徐々に体が衰弱し、やがて動けなくなってしまうという恐ろしい病だった。リリアの光の魔法ですら、その病を癒すことはできなかった。 民衆の間に、不安が広がり始める。 「聖女様の力は、もう尽きてしまったのではないか?」 「いや、これは何かの呪いではないのか?」 レオナルドも、さすがに国の惨状に気づかないわけにはいかなかった。彼は宰相や神官たちを集め、何度も対策会議を開いたが、有効な手立ては見つからない。 「リリア、どうにかならないのか。君の力で、この国を覆う災いを払ってくれ」 レオナルドは、焦りを募らせてリリアに懇願した。 「……はい、レオナルド様。わたくし、もっともっと強く祈ります」 リリアは健気に頷いてみせるが、彼女の内心は、焦りと恐怖でいっぱいだった。 彼女は、自分の力の正体に、誰よりも早く気づいていたのだ。 彼女の光の魔法は、無から何かを生み出すものではない。周囲の土地や、そこに住む人々から生命力(マナ)を無理やり吸い上げ、それを雨や豊穣といった現象に変換しているに過ぎなかった。言わば、未来の生命力を前借りしているようなもの。その代償として、大地は枯れ、人々は活力を失い、病に倒れていく。 アリアンナを追放した直後は、まだ王国のマナには余裕があった。だから、彼女の魔法は奇跡のように見えた。しかし、それを乱用し続けた結果、ついに国の生命力そのものが枯渇し始めてしまったのだ。 (どうしよう……。このままじゃ、いずれみんなにバレてしまう) 今さら、真実を告白することなどできない。奇跡を起こせない聖女など、何の価値もない。手に入れた地位も、レオナルドの寵愛も、すべて失ってしまうだろう。 追い詰められたリリアは、さらに強力な魔法を使おうと、より多くの生命力を大地から吸い上げるようになった。それは、自らの破滅を早めるだけの、悪循環だった。彼女の顔からは血の気が失せ、目の下には隈が浮かぶようになった。周囲は、彼女が国のために身を削って祈りを捧げているのだと賞賛したが、実際は、枯渇したマナを無理に引き出そうとする反動で、彼女自身の体も蝕まれていたのだ。 レオナルドは、そんなリリアの衰弱ぶりに心を痛めながらも、彼女を信じ続けた。いや、信じるしかなかった。彼女が偽物だと認めれば、自分の犯した過ち――アリアнナを不当に追放したこと――を認めなくてはならなくなるからだ。 ある夜、レオナルドは一人、執務室で国の惨状を記した報告書の山を前に、頭を抱えていた。 ふと、彼の脳裏に、追放した婚約者の顔が浮かんだ。 アリアнナならば、どうしただろうか。 彼女は、いつも冷静で、物事の本質を見抜く聡明さを持っていた。派手な奇跡は起こせなくとも、地道な調査と粘り強い交渉で、幾度も国の問題を解決に導いてくれた。旱魃の時も、彼女は各地の治水状況を自ら調べ上げ、効率的な用水路の建設計画を立案していたはずだ。 (……もし、あの時、俺がアリアンナの言葉に耳を傾けていたら。もし、彼女を信じていたら……) 後悔の念が、毒のように彼の心を蝕み始める。 だが、今さら後戻りはできない。彼は、自らが選んだ「聖女」という幻想に、すがりつくしかなかった。 王国の空は、どんよりと曇り、光を失っていた。 偽りの聖女がもたらした偽りの繁栄は、今やメッキが剥がれ落ち、その下にある深刻な腐敗を露わにし始めていた。 そして、その異変の真の原因を、遥か辺境の地で、一人の追放された令嬢が突き止めようとしていることを、まだ誰も知らなかった。 --- ***第二部:陰謀の核心へ*** --- ### **第五章:星詠みの警告と、王都への決意** 辺境の地、ヴァイスフェルダーの村にも、王国の異変の波は容赦なく押し寄せていた。村の数少ない井戸は完全に干上がり、痩せた畑はひび割れ、作物は枯れる一方だった。村人たちの顔には、疲労と絶望の色が濃く浮かんでいる。 アリアンナは、薬師として彼らのために奔走していた。だが、彼女の作る薬草も、水源がなければ煎じることすらできない。何より、村人たちを蝕む原因不明の衰弱――王都で流行しているのと同じ奇病――に対しては、なすすべがなかった。それは、体のどこかが悪いのではなく、生命力そのものが失われていくような、根源的な病だった。 「このままでは、村は冬を越せない……」 カインは、日に日に深刻になる状況に、厳しい表情で呟いた。 アリアンナの心も、焦りで焼かれるようだった。彼女は、この異変が単なる天災ではないことを、直感的に感じ取っていた。 その疑念を確信に変えるため、彼女はゼノンの塔を訪れた。 「ゼノン様、この国に何が起きているのか、突き止めたいのです。私に、力を貸してください」 ゼノンは、アリアнナの真剣な瞳を黙って見つめた後、静かに頷いた。 「……潮時、か。いいだろう、アリア。お前がこれまで学んできた『星詠み』の術を、試す時が来た」 星詠み。それは、古代魔法の中でも特に高度な技術を要する秘術だ。天体の運行と、地上に満ちるマナの流れを読み解くことで、過去の出来事の真実を明らかにし、未来に起こりうる可能性を垣間見る。 その夜、アリアнナはゼノンと共に塔の屋上に立った。冷たい夜気が肌を刺し、空には無数の星が、凍てついた光を放っている。 「心を澄ませ、アリア」ゼノンの声が、静寂に響く。「お前の意識を、天にまで広げるんだ。星々は、ただの光の点じゃない。世界の記憶を刻んだ、巨大な記録盤だ。マナの流れは、その記録を地上に伝えるインクの役割を果たす」 アリアンナは、教わった通りに深く呼吸し、意識を集中させた。自らの体を離れ、魂が空へと昇っていくような、不思議な感覚。彼女の感覚は、村を、森を、そしてクラインフェルト王国全土を覆う、巨大なマナの流れと一体になっていく。 そして、彼女は「見た」。 王都の中心で、巨大な渦がマナを吸い上げている光景を。 その渦の中心にいるのは、聖女リリア。彼女が祈りを捧げるたびに、大地から、人々から、生命力(マナ)が金色の光の粒子となって吸い上げられ、彼女の元へと集まっていく。そして、その力は歪んだ形で解放され、一時的な雨や豊穣をもたらすが、その代償として、吸い上げられた場所は生命力を失い、灰色に枯死していく。 それは、まさしく寄生だった。聖女リリアという存在が、王国という宿主から生命力を吸い尽くしているのだ。 「……なんて、こと……」 アリアンナの唇から、呻きが漏れた。聖女の奇跡の正体は、国を救うどころか、破滅へと導く禁忌の術だったのだ。 さらに、彼女は星の記憶を遡り、リリアがこの世界に召喚された日の光景を見た。 王宮の奥深く、禁じられた召喚の間。そこにいたのは、幼いリリアだけではなかった。ローブを深く被った複数の人物。その中心にいたのは、紛れもなく宰相ヴァルモンだった。彼らが、古代の禁術を用いて、異世界から「都合のいい聖女」を召喚したのだ。彼らは、リリアが強大な光の魔力を持つ一方で、それを制御する術も、その危険性も知らない、無垢な少女であることを知った上で、彼女を選んだ。 アリアンナを陥れたのも、すべては彼らの計画だった。聡明で、国のことを深く考えていたアリアнナは、いずれリリアの力の危険性に気づくに違いない。だから、邪魔者である彼女を、リリアを利用して排除したのだ。 すべての辻褄が、合った。 婚約破棄の理不尽な理由も、レオナルドの不可解な心変わりも、その裏にはヴァルモンによる巧みな情報操作と洗脳があったのだ。 「うっ……!」 膨大な情報と、あまりに醜い真実が一気に流れ込んできて、アリアンナは激しい頭痛に襲われた。視界がぐらりと揺らぎ、彼女はその場に崩れ落ちそうになる。 「アリア、しっかりしろ!」 ゼノンが、力強く彼女の肩を支えた。彼の手に触れた部分から、温かいマナが流れ込み、アリアンナの混乱した精神を鎮めていく。 「……見えたのか?」 「はい……」アリアンナは、荒い息をつきながら頷いた。「聖女の力の正体……宰相ヴァルモンの陰謀……すべて……」 彼女は、自分が見た光景を、途切れ途切れにゼノンに語った。すべてを聞き終えたゼノンは、苦々しげに顔を歪めた。 「……やはりな。ヴァルモンの奴、王国のマナを根こそぎ奪い、その先に何を企んでいるのか。国を破滅させて、奴に何の得がある……?」 ゼノンの呟きに、新たな疑問が浮かぶ。だが、今はそれよりも優先すべきことがある。 「このままでは、王国が滅びます」アリアンナは、ゼノンの腕を掴み、懇願するように言った。「ヴァイスフェルダーの村も、王都の民も、そして……私の家族も、危険に晒されています。私は、行かなければなりません。王都へ」 「王都へ? 正気か」ゼノンは眉をひそめた。「お前は追放された罪人だぞ。王都に足を踏み入れた瞬間に、捕らえられるのがオチだ。それに、今の宰相は王国の実権を握っている。お前一人が真実を叫んだところで、誰も耳を貸しはしない」 「それでも、行かなければならないのです!」アリアンナの空色の瞳に、決死の覚悟が燃え盛っていた。「この事実を知ってしまった以上、黙って見過ごすことはできません。たとえ捕らわれる危険があったとしても、誰かに、真実を伝えなければ……レオナルド様に、伝えなければ……!」 彼女の口から出たレオナルドの名に、ゼノンは一瞬、不機嫌そうな表情を浮かべた。 「……あの、お前を信じもせずに追放した、愚かな王太子のことか。あいつに伝えて、何になる?」 「彼は……愚かだったかもしれません。騙されやすかったのかもしれません。でも、彼の国を愛する気持ちは、本物でした。民を思う心は、誰よりも強かったはずです。彼が真実を知れば、きっと……きっと、目を覚ましてくれるはずです」 かつての婚約者への、捨てきれない信頼。それは、恋愛感情とはまた違う、共に国の未来を憂いた同志としての、最後の望みだった。 アリアンナの揺るぎない決意を見て、ゼノンは深いため息をついた。 「……やれやれ。お前は、俺が思っていた以上にお人好しで、そして頑固らしい。分かったよ、その無謀な計画、乗ってやろうじゃないか」 「本当ですか!?」 「ああ。ただし、条件がある」ゼノンは人差し指を立てた。「正面から乗り込むなんて馬鹿な真似はするな。お前がアリアンナ・フォン・エルスハイムだとバレた瞬間に、ゲームオーバーだ。身分を隠し、別人として王都に潜入する。そのための手助けは、俺がしてやる」 「……ありがとうございます、ゼノン様」 「礼を言うのは、事が成ってからだ」ゼノンはニヤリと笑った。「それに、俺も王都には少しばかり用事があってね。腐りきった王国の心臓部で、一体何が起きているのか、この目で確かめてみるのも面白そうだ」 彼の紫色の瞳が、妖しい光を宿した。その奥にある真意は、アリアンナにはまだ読めなかった。 翌日、アリアнナはカインに、王都へ戻る決意を告げた。 案の定、カインは血相を変えて反対した。 「お嬢様、無茶です! それはあまりに危険すぎます!」 「分かっています、カイン。でも、私は行かなければならないの。このまま、すべてが手遅れになる前に」 アリアンナは、星詠みで知った真実を、カインにだけ打ち明けた。忠実な騎士は、衝撃に言葉を失い、やがて静かな怒りに拳を握りしめた。 「……許しがたい。王太子殿下と王国を、そこまで愚弄していたとは……」 そして、彼はアリアンナの前に再び膝をついた。 「お嬢様。私の命は、あなた様と共にあると誓いました。その危険な旅路、ぜひともお供させてください。この剣、必ずやあなた様をお守りいたします」 「ありがとう、カイン。あなたがいれば、百人力だわ」 こうして、追放された令嬢の、王都への帰還計画が始まった。 アリアンナは、ゼノンの指導の下、古代魔法の修行に一層励んだ。自分の身を守り、状況を打開するための力を、少しでも高めるために。 ゼノンは、王都の裏社会に張り巡らせた彼自身の人脈を使い、情報収集と潜入の準備を始めた。 カインは、剣の腕を鈍らせないよう、日々鍛錬を続けた。 冬の厳しい寒さが、辺境の地を白く染め上げる頃。 三人の準備は、整った。 アリアンナは、育てていた薬草を村人たちに分け与え、その保存方法と使い方を丁寧に教えた。 「必ず、戻ってきます。それまで、どうか皆さん、生き抜いてください」 村人たちは、涙ながらに彼女たちの無事を祈った。かつて彼女を蔑んでいた者たちも、今や彼女を村の救い主として、心から慕っていた。 夜、三人は小さな荷物を背負い、誰にも見つからないように、ひっそりと村を後にした。 目指すは、すべての陰謀が渦巻く場所――クラインフェルト王国の王都。 アリアнナは、振り返らなかった。彼女の瞳は、はるか東の、まだ見ぬ夜明けの空を見据えていた。 偽りの聖女が支配する国に、真実の光を取り戻すための、長く険しい戦いが、今、幕を開けようとしていた。 --- ### **第六章:潜入と再会** 王都は、アリアンナが追放された時とは、まるで違う街のように様変わりしていた。 活気はなく、人々の顔は暗く、道行く誰もが俯き加減で歩いている。かつての華やかさは影を潜め、どんよりとした灰色の空気が街全体を覆っていた。聖女の奇跡がもたらした偽りの繁栄は、すでにはるか過去のものとなっていた。 「ひどい有り様だな。街全体からマナが枯渇しているのが、肌で感じられる」 ゼノンが、眉をひそめて呟いた。 アリアンナ、ゼノン、カインの三人は、身分を隠し、王都の城壁を抜けることに成功していた。 ゼノンの用意周到さは、驚くべきものだった。彼はどこで手に入れたのか、隣国から来た薬師の一団という偽の身分証を用意していた。アリアнナは髪を地味な茶色に染め、そばかすを描き、粗末だが清潔な旅装に身を包んでいた。もはや、彼女がかつての公爵令嬢だと気づく者は、まずいないだろう。カインは彼女の護衛兼荷物持ち、ゼノンはその薬師団の長という設定だ。 彼らが宿として選んだのは、王都の貧民街に近い、古びた安宿だった。貴族街から離れ、衛兵の目も届きにくいこの場所は、身を隠すには好都合だった。 「さて、と。まずは情報収集からだ」 宿の一室で作戦会議を開きながら、ゼノンが言った。 「俺は、古い馴染みに会ってくる。王都の裏も表も知り尽くした、信用できる情報屋だ。カイン、お前は街に出て、民衆の噂や衛兵の動きを探ってくれ。下手に目立つなよ」 「承知した」カインは頷いた。 「アリア、お前は……」ゼノンはアリアンナを見た。「しばらくは、この宿でおとなしくしていてくれ。お前の顔は、まだ覚えている奴がいるかもしれん」 「……はい」 アリアンナは頷いたが、心の中では焦りが募っていた。一刻も早く行動を起こしたい。しかし、ゼノンの言う通り、今は慎重に動くべき時だ。 ゼノンとカインが部屋を出ていくと、アリアнナは一人、窓から外の景色を眺めた。遠くに、王城の尖塔が見える。あの中に、レオナルドがいる。そして、リリアとヴァルモンも。 (レオナルド様は、この街の惨状を、どう思っているのかしら……) 彼女は、古代魔法の訓練で培った感覚を研ぎ澄ませてみた。街に満ちる人々の感情が、希薄なマナの流れに乗って、微かに伝わってくる。不安、恐怖、不満、そして諦め。負の感情が、澱のように街の底に溜まっていた。 その夜、ゼノンとカインが戻ってきた。 「面白いことがわかったぜ」 ゼノンは、にやりと笑いながら報告を始めた。彼が会ってきた情報屋「ギル」は、相当なやり手らしい。 「宰相ヴァルモンは、聖女リリアの威光を傘に、やりたい放題だ。国王陛下は相変わらず病床で、ヴァルモンは『陛下の代理』として、王国の財産を私物化し始めている。特に、国の管理下にある魔法鉱石の鉱山を、息のかかった貴族に不当に安く払い下げているらしい」 「魔法鉱石……?」アリアнナが聞き返した。それは、魔法の力を増幅させる効果を持つ、非常に高価で希少な鉱石だ。 「ああ。どうやらヴァルモンは、その鉱石をどこかに大量に横流ししているようだ。その金の流れの先は、まだ掴めていないがな」 一方、カインがもたらした情報は、より民衆に近いものだった。 「街では、聖女様への不満が高まっています。奇跡が起きなくなったばかりか、彼女の祈祷の後は、かえって病人が増えるという噂まで流れている。しかし、聖女様を批判する者は、ヴァルモン派の衛兵に『不敬罪』で捕らえられてしまうため、誰もが口をつぐんでいる状況です」 「リリアは、どうしている?」アリアнナが尋ねた。 「表舞台には、ほとんど姿を見せなくなったようです。離宮に引きこもり、日に日に衰弱しているとか。王太子殿下だけが、毎日彼女の元を見舞っている、と」 すべての情報が、アリアンナの星詠みで見た光景を裏付けていた。ヴァルモンは国を食い物にしている。リリアは力の代償に苦しみ、レオナルドは真実から目を背けている。 「……計画を、少し変更する」アリアンナは、決意を固めて言った。「私が、動きます」 「おいおい、おとなしくしてろと言ったはずだぜ?」ゼノンが眉をひそめる。 「このままでは、ヴァルモンの悪事の証拠を掴むのに時間がかかりすぎます。私は、薬師として王城に近づきたい。城内では、原因不明の病に倒れる者も多いはず。私の薬草の知識と、少しの魔法を使えば、治療師として城に潜り込めるかもしれません」 それは危険な賭けだった。だが、城の中に入り込めれば、得られる情報は格段に増える。ヴァルモンの動きも、リリアの様子も、そしてレオナルドのことも、直接探ることができる。 ゼノンはしばらく腕を組んで考えていたが、やがて肩をすくめた。 「……まあ、お前がそこまで言うなら、止めはしない。だが、絶対に正体を明かすな。少しでも危なくなったら、すぐに引け。いいな?」 「はい」 翌日から、アリアンナは「薬師アリア」として、貧民街で病人の治療を始めた。辺境の村で培った経験と、ゼノンに教わった古代魔法の応用――植物の生命力を活性化させ、薬効を最大限に引き出す術――によって、彼女の薬は驚くべき効果を発揮した。たちまち、彼女の評判は口コミで広まっていった。 そして、チャンスは意外なほど早く訪れた。 城勤めの侍女の一人が、アリアンナの噂を聞きつけ、病に倒れた母親の治療を依頼してきたのだ。アリアンナが献身的に治療にあたった結果、老婆は快方に向かった。その侍女はアリアンナに深く感謝し、「あなたのような素晴らしい薬師が、城にもいてくだされば……」と漏らした。 この侍女の口添えにより、アリアンナは、城内の治療院で人手が足りないという理由から、見習い治療師として王城で働くことを許された。カインも、彼女の護衛という名目で、城の下働きとして潜り込むことに成功した。 王城の中は、アリアンナが去った頃とは比べ物にならないほど、重苦しい空気に満ちていた。侍女や兵士たちの顔にも疲労の色が濃く、そこかしこで咳き込む者や、壁に寄りかかって休む者の姿が見られる。マナの枯渇は、城内にいる者たちをより深刻に蝕んでいた。 治療院は、まさに野戦病院のようだった。次々と運ばれてくる患者に対し、神官たちの癒しの魔法はほとんど効果を失っていた。アリアンナは、目立たないように振る舞いながらも、その知識と力で多くの患者を救った。 そんなある日の午後。 アリアнナが薬草を調合していると、治療院の入り口がにわかに騒がしくなった。 「王太子殿下のお成りー!」 アリアンナの心臓が、大きく跳ねた。顔を伏せ、他の治療師たちと共に頭を下げる。 足音が近づいてくる。革のブーツが床を打つ、聞き慣れた音。 レオナルドは、やつれていた。 王太子としての威厳を保とうとはしているが、その顔色は悪く、目の下には深い隈が刻まれている。燃えるようだった赤毛も、心なしか色褪せて見えた。彼は、この国の惨状と、自らの無力さに、深く苦しんでいるのだ。 彼は、治療院の長である老神官に、患者たちの様子を尋ねていた。 「……状況は、芳しくないようだ。聖女様の祈祷も、もはや……」 「恐れながら、殿下。我々の癒しの術も、マナそのものが枯渇している今、十分な効果を発揮できず……」 その時、一人の若い騎士が、激しく咳き込みながら苦しそうにベッドの上で身を起こした。レオナルドは、その騎士に駆け寄った。 「しっかりしろ、アルフォンス! 君は、私の護衛騎士団の中でも、将来を嘱望された男だろう!」 「も……申し訳、ございません、殿下……。この体、もはや、お役に……」 騎士は、再び激しく咳き込み、その手には血が滲んでいた。 レオナルドは、唇を噛みしめた。彼の瞳に、深い悔しさと無力感が浮かんでいる。 その瞬間、アリアンナは、衝動的に動いていた。 彼女は、自分が調合したばかりの、咳を鎮め、気道を楽にする効果のある薬湯を手に、レオナルドの前に進み出た。 「恐れながら、殿下」 アリアンナは、深く頭を下げたまま言った。声色を変え、少ししゃがれた声を装う。 「こちらの薬湯を、お試しください。気休めかもしれませんが、少しは楽になるかと」 レオナルドは、突然現れた見習い治療師に、怪訝な目を向けた。茶色に染めた髪、そばかすのある顔。もちろん、彼がアリアンナだと気づくはずはない。 しかし、彼はなぜか、彼女から目が離せなかった。 その佇まい、落ち着いた声、そして、薬湯を差し出すその仕草に、脳裏の奥深くにしまい込んでいた、かつての婚約者の面影が重なったのだ。 「……お前は?」 「アリア、と申します。こちらで、見習いをさせていただいております」 レオナルドは、しばらく黙って彼女を見つめていたが、やがて、差し出された薬湯を受け取った。そして、自らの手で、苦しむ騎士アルフォンスの口元へと運んでやった。 薬湯を飲んだ騎士の咳は、不思議なほど、すぐに和らいでいった。苦しげだった呼吸も、少しずつ穏やかになる。 「……楽に、なりました……」 レオナルドは、驚いてアリアンナを見た。 「これは……すごいな。ただの薬湯ではないだろう」 「いいえ、ただの薬草の組み合わせですわ。幸い、この方の症状に合っただけでございましょう」 アリアнナは、謙虚に答えて頭を下げた。 レオナルドは、なおも彼女を興味深そうに見つめていた。その瞳には、久しぶりに、微かな光が宿っていた。 「……アリア、と言ったか。礼を言う。見事な働きだ」 彼はそれだけ言うと、踵を返し、治療院を去っていった。 アリアンナは、彼の背中が見えなくなるまで、頭を下げ続けていた。顔を上げた時、彼女の心臓は、まだ激しく鼓動していた。 気づかれなかった。安堵と、ほんの少しの寂しさが胸をよぎる。 だが、これでいい。これは、最初の一歩だ。 彼に、薬師アリアの存在を印象付けることができた。 しかし、アリアンナは気づいていなかった。 治療院の柱の影から、その一部始終を、冷たい瞳で見つめている者がいたことに。 それは、聖女リリアに付き従う侍女の一人だった。彼女は、王太子の心が、謎の見習い治療師に一瞬でも動いたことを見逃さなかった。そして、そのことを主人に報告するため、静かにその場を立ち去った。 新たな嵐が、王城の中で生まれようとしていた。 --- ### **第七章:暴かれる嘘と、王太子の疑念** 薬師アリアの評判は、王太子レオナルドの目に留まった一件以来、城内で静かに、しかし確実に広まっていった。彼女の作る薬は、神官の癒しの術が効力を失った今、唯一の希望の光のように見えた。多くの兵士や侍女たちが、彼女の元を訪れ、治療を受けては感謝の言葉を口にした。 アリアンナは、その立場を巧みに利用し、城内の情報を集めていった。患者との何気ない会話の中から、宰相ヴァルモンの悪行の断片を拾い集める。どの部署の予算が不自然に削られたか、どの貴族が不当に左遷されたか、ヴァルモン派の役人がどこで羽振りの良い生活をしているか。それらの情報は、ゼノンが裏社会から得る情報と組み合わせることで、ヴァルモンの巨大な汚職の全体像を、少しずつ浮かび上がらせていった。 一方、カインも下働きとして働きながら、ヴァルモン派の衛兵たちの動向や、城の警備体制の変化を探っていた。彼は、ヴァルモンが私兵のように扱っている衛兵部隊が、夜な夜な城の地下深くへと何かを運び込んでいることを突き止める。 「おそらく、横領した魔法鉱石です」カインは、宿での密会で報告した。「城の地下には、古代の遺構が広がっていると聞きます。そこに、何かを隠しているに違いありません」 「地下遺構、か……」ゼノンは興味深そうに顎を撫でた。「ヴァルモンの奴、ただ金を溜め込んでるだけじゃなさそうだな。その鉱石を使って、何かを企んでいると見るべきか」 三人がそれぞれの持ち場で陰謀の核心に迫ろうとしている中、アリアンナをめぐる状況は、新たな局面を迎えていた。 聖女リリアが、アリアンナの存在を強く意識し始めたのだ。 きっかけは、レオナルドの変化だった。彼は、相変わらず毎日リリアの離宮を見舞ってはいたが、その会話の中に、時折「薬師アリア」の名を出すようになった。 「今日、アリアという治療師が、瀕死の兵士を救った。彼女の知識は、大したものだ」 「アリアは言っていた。この病は、体だけでなく、心の気力も大事なのだと。実に的を射た言葉だ」 レオナルドに悪気はない。ただ、久しぶりに現れた希望の兆しに、心が浮き立っていただけだ。しかし、リリアにとって、それは面白くなかった。これまで自分だけに向けられていたレオナルドの関心が、他の女に向かうことが、我慢ならなかったのだ。 嫉妬と焦燥に駆られたリリアは、侍女に命じてアリアの素性を徹底的に調べさせた。だが、彼女が隣国から来た薬師の一団であるという偽の経歴は、ゼノンが完璧に作り上げたもので、簡単にはボロが出ない。 業を煮やしたリリアは、直接行動に出ることにした。彼女は、アリアンナが治療院で働いているところに、わざとらしく体調不良を訴えて現れた。 「……頭が、くらくらするの。聖女の私でも、この国の淀んだ空気には、さすがに参ってしまうわ」 リリアは、レオナルドや他の貴族たちの前で見せる可憐な姿とは違う、傲慢で冷たい表情でアリアンナを見下ろした。周囲の治療師たちは、聖女様の突然のご訪問に、恐縮してひれ伏している。 「あなたが、噂の薬師アリアね。私のこの症状を、治せるものなら治してごらんなさい」 それは、あからさまな挑発だった。 アリアンナは、顔を伏せたまま、冷静にリリアの様子を観察した。彼女の肌は青白く、唇は乾き、瞳の奥には深い疲労と焦りの色が浮かんでいる。これは、マナの枯渇による反動だ。生命力を無理に使い続けた、当然の報いだった。 「聖女リリア様。恐れながら、拝見いたします」 アリアンナは、リリアの手首を取り、脈を診るふりをした。その瞬間、彼女は古代魔法の力で、リリアの体内に渦巻く、淀んで枯渇しかけたマナの流れを直接感じ取った。そして、そのマナに、微かに、しかし禍々しい『禁術』の残滓が絡みついていることにも気づいた。これは、ヴァルモンが彼女を召喚した時に使った術の名残だろう。 「……リリア様のお体は、大変お疲れのご様子。今は、何よりも安静が必要です。お力を使いすぎるのは、お控えになった方がよろしいかと」 アリアンナは、当たり障りのない診断を告げた。 しかし、リリアはその言葉に激昂した。 「何を偉そうに! 平民の薬師ふぜいが、この聖女である私に指図する気!?」 彼女は、アリアнナの手を乱暴に振り払った。 「あなたは、私が国のために身を削っているのを、止めろというの!? それとも、あなたには私のこの苦しみを癒す力などない、ただの紛い物だということを、白状するのかしら!?」 そのヒステリックな叫び声は、リリアがどれほど追い詰められているかを物語っていた。 アリアンナは、ただ静かに頭を下げた。 「申し訳ございません。私のような者には、聖女様のお体を癒すなど、大それたことでした」 彼女の謙虚な態度に、リリアは毒気を抜かれたようだったが、それでも勝ち誇ったように鼻を鳴らした。 「わかればいいのよ。王太子殿下も、あなたのような紛い物に、これ以上惑わされなければいいのだけれど」 そう言い捨てて、リリアは侍女たちを連れて去っていった。 この一件は、すぐにレオナルドの耳にも入った。彼は、リリアがアリアを詰ったと聞き、胸に微かな痛みと、そして疑問を感じた。 (リリアは、あんな風に人を見下すようなことを言う子だっただろうか……。いや、彼女は国のために疲れているのだ。少し、神経質になっているだけだろう) レオナルドは、そう自分に言い聞かせた。しかし、一度生まれた疑念の種は、彼の心の中で、静かに根を張り始めていた。 彼は、自らも国の異変の原因を突き止めようと、独自に調査を始めていた。宰相ヴァルモンに隠れて、信頼できる数少ない騎士たちに、各地の状況を詳しく報告させていたのだ。 そして、彼は奇妙な共通点に気づいた。 聖女リリアが大規模な祈祷を行った地域ほど、その後の土地の枯渇と病の流行が、より深刻になっているという事実だった。 まさか。そんなはずはない。 レオナルドは、その恐ろしい可能性を必死で打ち消そうとした。 そんな彼の心を、さらに揺さぶる出来事が起きる。 アリアンナを追放する原因となった、「聖女リリアへの嫌がらせ」の証拠。その一つに、リリアの教科書を破り、ドレスを汚したとされる侍女の証言があった。その侍女が、城内で流行りの病に倒れ、死の淵をさまよっているという報告を受けたのだ。 レオナルドは、衝動的にその侍女の元へと向かった。侍女は、もはや虫の息だった。 「……殿下……」 侍女は、レオナルドの姿を認めると、最後の力を振り絞るように、何かを伝えようとした。 「私が……私が、嘘を……つきました……」 「何……?」 「エルスハイム様は……何も……。リリア様から、お金を……家族を、人質に……。だから、私は……偽りの、証言を……」 侍女は、そこまで言うと、がくりと首を落とし、息絶えた。 レオナルドは、その場に立ち尽くした。 頭を、金槌で殴られたような衝撃。侍女の最後の言葉が、何度も何度も、頭の中で反響する。 嘘。偽りの証言。アリアンナは、何もしていなかった。 自分は、リリアと、そしてあの侍女の嘘を鵜呑みにし、長年の婚約者を、無実の彼女を、断罪し、追放したのだ。 「ああ……ああああ……っ!」 レオナルドは、こみ上げてくる絶望と後悔に、思わず呻き声を上げた。 足元から、自分が信じてきた世界が、ガラガラと崩れ落ちていく音が聞こえる。 リリアは、聖女などではなかった。自分の寵愛を得るために、アリアンナを陥れた、ただの嘘つきな少女だったのか。 では、彼女が起こしてきた奇跡とは、一体何だったのだ? この国を覆う災厄と、彼女は、本当に関係があるのではないか? そして、宰相ヴァルモン。彼は、この全てを知っていたのではないか? いや、むしろ、彼こそが、この茶番劇を裏で操っていたのではないか? すべての点が、線で繋がり始めた。 自分の愚かさに、彼は吐き気を覚えた。愛していたはずの女性を、信じることすらできず、偽りの聖女の言葉に踊らされ、国を、民を、破滅の淵に追いやった。 「アリアンナ……私は、君に、なんてことを……」 彼の琥珀色の瞳から、熱い涙が止めどなく溢れ出した。それは、王太子になってから、彼が初めて流した、後悔の涙だった。 彼は、よろめく足で執務室に戻ると、震える手で一枚の羊皮紙を取り出した。 そして、そこに一つの名を記す。 『薬師アリア』 今、自分が唯一、信じられるかもしれない存在。 彼女に会わなければならない。彼女ならば、この国の病の原因を、そして、あるいは自分が進むべき道を、示してくれるかもしれない。 レオナルドは、まだ気づいていない。自分が救いを求めようとしているその薬師こそが、自分が犯した罪の、最大の被害者であるということに。 王太子の疑念は、今や確信へと変わりつつあった。 偽りの聖女と、邪悪な宰相の嘘が、ついに暴かれようとしている。 王城に渦巻く陰謀は、最終局面に向けて、大きく動き出そうとしていた。 --- ### **第八章:地下遺跡の秘密と決戦前夜** レオナルドの心変わりは、すぐに行動となって現れた。彼は、薬師アリアを密かに自室へと呼び出した。表向きは、城内の病に対する新たな対策を諮るため、という名目だった。 アリアンナは、レオナルドからの呼び出しに、緊張しながらも彼の執務室へと向かった。これが、正念場になるかもしれない。 「アリア、来てくれたか」 執務室で待っていたレオナルドは、以前とは別人のように憔悴していたが、その瞳には、迷いを振り切ったような強い光が宿っていた。 彼は、人払いをした部屋で、アリアンナにすべてを打ち明けた。死んだ侍女の告白。リリアへの疑念。宰相ヴァルモンの暗躍。そして、アリアンナ・フォン・エルスハイムを不当に追放してしまったことへの、深い後悔。 「私は……取り返しのつかない過ちを犯した」レオナルドは、絞り出すように言った。「私は、真実を見る目を持たず、最も信じるべき人間を裏切ってしまった。王太子失格だ」 アリアンナは、彼の告白を、ただ静かに聞いていた。憎しみはなかった。目の前にいるのは、かつて愛した、愚かで、しかし根は誠実な男の、苦悩に満ちた姿だった。 「殿下」アリアンナは、意を決して口を開いた。声は、まだ薬師アリアのものだ。「後悔されているお気持ちは、お察しいたします。ですが、今は感傷に浸っている時ではございません。宰相ヴァルモンの陰謀を止めなければ、この国は本当に滅びます」 「……ああ、わかっている。だが、どうすればいい? 父王は病に伏し、城の衛兵の多くはヴァルモンの息がかかっている。下手に動けば、こちらが反逆者として捕らえられかねん」 「証拠が必要です」アリアンナは断言した。「宰相が国を裏切り、民を害しているという、誰もが認めざるを得ない、決定的な証拠です」 そこで、アリアнナはカインが掴んだ情報をレオナルドに伝えた。城の地下に運び込まれている、大量の魔法鉱石のことだ。 レオナルドは、目を見開いた。 「地下遺構に……? あそこは、王家の者でも立ち入りが禁じられている、危険な場所のはずだ。ヴァルモンは、一体そこで何を……」 「それを、突き止めます。殿下には、私たちが地下に潜入する間、ヴァルモン派の注意を他へ引きつけていただきたいのです」 「わかった。私に協力させてくれ」レオナルドは、力強く頷いた。「これは、私が犯した罪を償うための、最初の戦いだ」 こうして、王太子レオナルドと、正体を隠したアリアンナたちの、秘密裏の協力関係が結ばれた。 その夜。 レオナルドは、緊急の軍事会議を招集するという名目で、ヴァルモンをはじめとする主だった貴族や将軍たちを、王城の一室に足止めした。 その隙に、アリアнナ、カイン、そして情報屋ギルからの地図を手にいれたゼノンが、城の地下遺構へと潜入した。 地下への入り口は、古い食料庫の床下に隠されていた。湿った冷たい空気が、下から吹き上げてくる。三人はランプの灯りを頼りに、螺旋階段を延々と下っていった。 地下遺構は、巨大な迷宮のようだった。古代の様式で造られた石壁がどこまでも続き、不気味な静寂が支配している。 「ここは、ただの地下室じゃないな」ゼノンが、壁に刻まれた古代ルーン文字を指でなぞりながら言った。「これは、巨大な魔法増幅装置だ。王都全体に張り巡らされた、いわば魔法の回路。クラインフェルト王国の礎そのものと言っていい」 「ヴァルモンは、こんな場所で何を?」カインが警戒しながら周囲を見回す。 やがて三人は、ひときわ大きな空間にたどり着いた。その中央には、巨大な魔法陣が描かれ、その周囲に、カインが報告した通りの、大量の魔法鉱石が山と積まれている。魔法鉱石は、魔法陣のエネルギーラインに沿って配置され、不気味な紫色の光を放っていた。 そして、魔法陣の中心には、祭壇のようなものがあり、そこに禍々しいオーラを放つ、黒い水晶が安置されていた。 「……これは……『魂縛りのクリスタル』!」ゼノンが、忌々しげに吐き捨てた。「古代の禁術の中でも、最も邪悪なアーティファクトの一つだ。生命力を吸い上げ、それを別のエネルギーに変換・貯蔵することができる」 アリアнナは、息を呑んだ。 「では、リリアが集めたマナは、すべてこの水晶に……?」 「その通りだ」ゼノンは頷いた。「リリアは、ただの集金装置に過ぎん。ヴァルモンの本当の目的は、この水晶に、王国中のマナを貯め込むことだったんだ」 「何のために、そんなことを……」 その答えは、彼らの背後から聞こえてきた。 「ようやく気づいたか、ネズミども」 振り返ると、そこには、宰相ヴァルモンが、彼の私兵たちを率いて立っていた。手には、松明が握られている。レオナルドの陽動は、見破られていたのだ。 「ヴァルモン……!」カインが、剣を抜いてアリアンナをかばうように前に立った。 ヴァルモンは、歪んだ笑みを浮かべた。 「王太子殿下が、急に殊勝な態度を取り始めたのでな。もしやと思ったが、やはりお前たちのような虫ケラを城に引き入れていたか。特に、そこの女……薬師アリアとやら。お前のことは、リリアからよく聞いているぞ。随分と、王太子殿下のお心を惑わせているそうじゃないか」 ヴァルモンの嘲るような視線が、アリアンナに注がれる。 「教えてやろう、貴様らの疑問にな」ヴァルモンは、芝居がかった仕草で両手を広げた。「私がなぜ、こんな面倒なことをしているか。それは、すべて、この国を『浄化』するためだ!」 彼は、狂信的な光を瞳に宿して叫んだ。 「今のクラインフェルト王国は、腐りきっている! 惰弱な王、愚かな王太子、私利私欲にまみれた貴族ども! こんな国、一度更地に戻し、新たなる王の下で、新たなる秩序を築き上げるべきなのだ!」 「新たなる王、だと……?」ゼノンが、面白くなさそうに聞き返す。 「そうだ! そして、その新たなる王の力となるのが、この『魂縛りのクリスタル』に蓄えられた、この国すべてのマナよ! 私は、この莫大なエネルギーを使い、古の契約に従い、偉大なる『守護者』を召喚する! その圧倒的な力の前に、王も、貴族も、すべてひれ伏すことになるだろう!」 ヴァルモンの狂気に満ちた計画に、アリアнナは戦慄した。国を救うのではなく、破壊し、作り変える。そのために、民の生命力を犠牲にしていたというのか。 「お前たちの役目は、ここまでだ」ヴァルモンは、冷たく言い放った。「ここで、この国の礎と共に、死んでもらう。お前たちの死は、王太子が反乱を企てたが、私がそれを鎮圧した、という筋書きの、良いスパイスになるだろう」 ヴァルモンが手を挙げると、私兵たちが一斉に剣を抜き、三人に襲いかかってきた。 「カイン!」 「お嬢様は、下がっていてください!」 カインが、鬼神のごとき強さで兵士たちを食い止める。しかし、相手の数が多すぎる。 ゼノンも、懐から取り出した数枚の魔法カードを投げつけ、炎や氷の魔法で応戦する。だが、この狭い空間では、強力な魔法は使いにくい。 「アリア!」ゼノンの声が飛ぶ。「魔法陣を破壊しろ! 中心のクリスタルだ! あれさえ止めれば、奴の計画は終わる!」 アリアンナは、意を決して魔法陣へと走った。 「行かせるか!」 ヴァルモン自身が、アリアнナの前に立ちはだかり、杖を振るう。黒い魔力の弾が、彼女に襲いかかる。 アリアンナは、とっさに古代魔法の防御壁を展開してそれを防いだ。 「ほう、ただの薬師ではないな。その力……さては、お前……」 ヴァルモンは、アリアンナの正体に気づきかけたようだった。 その時、地下遺構の入り口から、新たな一団が駆け込んできた。 「ヴァルモン! 貴様の好きにはさせん!」 レオナルドだった。彼は、ヴァルモンが会議室から抜け出したことに気づき、自分に忠実な騎士たちを率いて、後を追ってきたのだ。 「殿下……! 愚かな……自ら死にに来るとは!」 場は、レオナルド派の騎士とヴァルモンの私兵が入り乱れる、大乱戦となった。 その混乱の中、アリアンナは再びクリスタルへと向かう。 「させぬと言っている!」 ヴァルモンが、再度アリアнナに襲いかかろうとした、その時。 「お前の相手は、俺だ」 ゼノンが、ヴァルモンの前に立ちはだかった。彼の周りには、今までとは比べ物にならないほどの、強大な魔力が渦巻いている。 「その禍々しい魔法……貴様、何者だ?」 「さあな。ただの、通りすがりの魔術師だよ」 ゼノンは、不敵に笑った。 アリアンナは、二人の激しい魔法戦を背に、ついに祭壇へとたどり着いた。 黒い水晶は、まるで生きているかのように、ドクンドクンと脈動し、不気味な光を放っている。 アリアンナは、両手を水晶にかざした。 (お願い……私の声を聞いて……!) 彼女は、自らのマナを、祈りと共に水晶に注ぎ込んだ。破壊するのではない。中に囚われた、人々の苦しみの声、大地の嘆きと感応し、その繋がりを断ち切るのだ。 彼女の体から、温かい、柔らかな光が溢れ出す。それは、リリアの偽りの光とは違う、生命そのものが持つ、慈愛に満ちた光だった。 光が水晶に触れた瞬間、甲高い悲鳴のような音が響き渡り、黒い水晶に、大きな亀裂が入った。 魔法陣の光が、急速に失われていく。 「な……馬鹿な! 俺の計画が……!」 ヴァルモンが、絶望の声を上げた。 計画が破綻したことを悟ったヴァルモンは、最後の、そして最悪の手段に出る。 「ええい、こうなれば、不完全でも構わん! いでよ、我が僕! 古の守護者よ! この場にいる者どもを、すべて食い尽くせ!」 彼は、自らの血を触媒に、最後の呪文を唱えた。 亀裂の入った水晶が、まばゆい光と共に砕け散る。そして、その中から、次元の裂け目を通って、巨大な、異形の影が這い出てきた。 それは、いくつもの触手と、無数の目を持つ、混沌の化身のような魔物だった。 古代に封印された、国を滅ぼすほどの力を持つ、災厄の獣。 決戦の時は、来た。 偽りの聖女によって蝕まれ、宰相の狂気に囚われた王国。 その運命は今、追放された令嬢と、過ちを悔いた王太子、そして謎の魔術師の手に、委ねられた。 --- ***第三部:王国の再生*** --- ### **第九章:玉座の攻防** 「グルォォォォォォッ!!」 次元の裂け目から現れた古代の魔物は、天を揺るがすほどの咆哮を上げた。その巨体は地下遺構の天井に届き、無数にある目はそれぞれが異なる方向を向き、爛々と赤黒い光を放っている。その姿は、見る者の正気を奪うような、冒涜的な混沌の塊だった。 ヴァルモンが「守護者」と呼んだそれは、もはや制御不能の破壊の化身と化していた。 「ひっ……!」 「化け物……!」 レオナルド派の騎士も、ヴァルモンの私兵も、敵味方の区別なくその恐るべき姿に恐れおののき、動きを止めた。この世の終わりのような光景を前に、人間の争いなど、あまりに矮小なものに思えた。 「は……はは……ははははは! 見ろ! この圧倒的な力を! これで、この腐った国は浄化されるのだ!」 ヴァルモンだけが、狂ったように高笑いを続けていた。もはや彼の精神は、自らが呼び出した災厄によって、完全に破綻していた。 魔物は、手始めとばかりに、一番近くにいたヴァルモンの私兵の一人を巨大な触手で捕らえた。騎士は悲鳴を上げる間もなく、魔物の裂け目のような口に飲み込まれていく。 その惨状に、誰もが言葉を失った。 「総員、退避! 民間人に被害が及ぶ前に、地上への出口を封鎖しろ!」 レオナルドが、我に返って叫んだ。彼の声には、恐怖を押し殺した王太子としての気迫がこもっていた。騎士たちは、その命令にはっとし、統率を取り戻して動き始める。 「退避だと? 逃がさん!」ヴァルモンが、逃げようとする騎士たちに、黒い魔法を放つ。「貴様らも、新たなる時代の礎となるがいい!」 場は、魔物の脅威とヴァルモンの狂気が入り乱れる、地獄絵図と化した。 「アリア、カイン! ここは俺たちで食い止める! お前たちは、王城へ向かえ!」 ゼノンが、魔物の攻撃を防ぎながら叫んだ。彼は、強力な防御結界を展開し、かろうじて魔物の触手を弾いているが、それも時間の問題だろう。 「王城へ? なぜです!?」アリアンナは叫び返した。 「リリアだ! あの偽聖女が、まだ城にいる! 奴が、この魔物と繋がっている可能性がある! 彼女のマナ供給を完全に断ち切らない限り、この化け物は無限に再生するかもしれん!」 確かに、魔物を呼び出した水晶は砕けたが、その核となったのはリリアが集めたマナだ。彼女自身が、いわば魔物のバックアップ電源になっている可能性がある。 「カイン、お嬢様を頼む!」 「承知!」 カインはアリアンナの腕を掴むと、戦場を駆け抜けた。 「殿下! 後を頼みます!」 アリアンナは、レオナルドに叫んだ。 「ああ、任せろ! 必ず、生きてまた会おう!」 レオナルドは、剣を構え、魔物に向かっていく。彼の瞳には、もはや迷いはなかった。自らの罪を清算し、国と民を守るという、王たる者の覚悟が宿っていた。 アリアнナとカインは、地下遺構を駆け抜け、地上へと続く階段を駆け上がった。背後からは、魔物の咆哮と、魔法がぶつかり合う轟音が聞こえてくる。 地上に出ると、城内はすでに大パニックに陥っていた。地下からの不気味な振動と轟音に、兵士や侍女たちが右往左往している。 「リリア様の離宮は、あちらです!」 カインの先導で、二人は人波をかき分けて進んだ。 リリアの離宮は、不気味なほど静まり返っていた。侍女たちの姿はなく、豪華な調度品が散乱している。彼女たちは、主を見捨てて逃げ出したのだろう。 離宮の最も奥、祈りの間とされる部屋の扉を開けると、そこにリリアはいた。 彼女は、祭壇の前に倒れるように座り込み、ガタガタと震えていた。その体からは、まるで幽鬼のように、金色のマナがとめどなく流れ出し、床下へと吸い込まれている。地下の魔物へと、生命力が供給され続けているのだ。 「リリアさん!」 アリアンナが呼びかけると、リリアはゆっくりと顔を上げた。その顔は血の気を失い、黒い瞳は虚ろで、焦点が合っていない。 「……あ……アリアンナ……様……?」 彼女は、茶色い髪とそばかすの偽装を越えて、アリアンナの正体を見抜いたようだった。いや、もはや正常な判断力を失い、幻覚を見ているのかもしれない。 「なぜ……ここに……? ああ……音が、聞こえる……化け物の、声が……。私のせい……私のせいだ……」 彼女は、罪の意識と恐怖に、完全に心を壊されていた。 「しっかりしてください! あなた自身の意志で、マナの流れを断つのです! でなければ、あなたも、この国も、すべて魔物に食い尽くされてしまう!」 アリアンナは、彼女の肩を掴んで揺さぶった。 「無理よ……もう、止められない……。ヴァルモン様に、逆らえない……。私は、ただの……ただの、日本の女子高生だったのに……。こんなことになるなんて……」 リリアは、子供のように泣きじゃくった。 その姿は、哀れだった。彼女もまた、ヴァルモンの野心に利用された、犠牲者の一人なのかもしれない。だが、彼女が犯した罪、アリアンナを陥れ、多くの民を苦しめた罪が、消えるわけではない。 「……カイン、扉の周りを固めてください。誰も近づけないように」 「はっ!」 カインが部屋を出て、扉の外で剣を構える。 アリアンナは、リリアの前に静かに膝をついた。そして、彼女の冷たい両手を、自らの温かい手で包み込んだ。 「リリアさん。あなたのしたことは、許されることではありません。ですが、今ならまだ、間に合います。あなたに残された、最後の良心に、私は賭けます」 アリアнナは、自らの古代魔法の力を、静かに解放した。それは、攻撃的な力ではない。他者の心に寄り添い、傷を癒し、本来の姿へと導く、慈愛の魔法。彼女の体から溢れ出す温かい光が、リリアを優しく包み込んでいく。 「思い出してください。あなたが、この世界に来る前のことを。あなたの本当の姿を。あなたは、国を滅ぼすための道具ではない。一人の、人間のはずです」 アリアンナの光に触れたリリアの体から、ヴァルモンが召喚時に施したであろう、禁術の呪縛が、黒い霧のように溶け出していく。リリアの虚ろだった瞳に、少しずつ、人間の光が戻り始めた。 「わ……たし……?」 「そうです。目を覚ましてください、リリアさん!」 その時、リリアの体から流れ出ていたマナの奔流が、ふっと途絶えた。彼女が、自らの意志で、魔物への供給を断ち切ったのだ。 地下で戦っていたゼノンとレオナルドも、その変化に気づいた。 「……! 魔物の再生能力が落ちたぞ!」ゼノンが叫ぶ。「アリアが、やってくれたらしい!」 「今だ! 総員、一斉攻撃!」 レオナルドの号令一下、騎士たちの渾身の一撃が、魔物に叩き込まれる。ゼノンも、これまで温存していた最大級の攻撃魔法を詠唱する。 「万象の理よ、我が声に集え! 原初の光となりて、闇を滅せよ! ――ホーリー・ノヴァ!」 ゼノンの手から放たれた純白の光の奔流が、騎士たちの剣撃と共に、魔物の核を貫いた。 断末魔の叫びと共に、古代の魔物は光の粒子となって霧散し、地下遺構には、再び静寂が戻った。 戦いは、終わった。 ヴァルモンは、生き残った騎士たちによって捕縛され、呆然自失のまま連行されていった。 一方、離宮では。 マナの供給を断ち切ったリリアが、糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。彼女の体からは、聖女としての力は、もはや完全に失われていた。 「……ありがとう……」 彼女は、意識を失う直前、アリアンナに向かって、か細い声でそう呟いた。 アリアнナは、静かに立ち上がった。 窓の外を見ると、夜が明け始めていた。長く、暗い夜が終わり、王都に、新しい朝の光が差し込もうとしていた。 玉座をめぐる攻防は、終わった。 しかし、本当の戦いは、これから始まる。 偽りのヴェールが剥がされたこの国を、どう再建していくのか。人々の失われた信頼を、どう取り戻していくのか。 アリアンナは、昇り始めた朝日を、まっすぐに見つめていた。その瞳には、未来への、確かな決意が宿っていた。 --- ### **第十章:偽りの聖女、真実の王女** 夜明けの光が、王城の玉座の間を荘厳に照らし出していた。 しかし、そこに満ちているのは祝祭の空気ではない。重苦しい沈黙と、緊張感だった。 玉座の間には、王国の主だった貴族たちが、不安げな面持ちで集められていた。昨夜の動乱の噂はすでに城中に広まっており、彼らは何が起きたのか、これからどうなるのか、固唾をのんで見守っている。 その視線の先、玉座の前には、三人の人物が立っていた。 一人は、傷つき、疲れ果ててはいるが、王太子としての威厳を取り戻したレオナルド。 もう一人は、捕縛され、すべての希望を失った表情でうなだれる、元宰相ヴァルモン。 そして最後の一人は、鎖に繋がれ、すべての力を失って、ただ震えている元聖女リリア。 レオナルドは、集まった貴族たちを見渡し、重々しく口を開いた。 「皆に、伝えねばならぬことがある。昨夜、この王城の地下で、前宰相ヴァルモンによる、王国転覆の企てがあった。彼は、聖女リリア様の力を悪用して国中のマナを奪い、その力で古の魔物を召喚し、王国の支配を企んだのだ」 貴族たちが、大きくどよめいた。信じられない、という表情を浮かべる者。やはりそうだったのか、と頷く者。反応は様々だった。 「彼の陰謀は、我ら騎士団と、協力者たちの尽力により、すんでのところで阻止された。ヴァルモンは、国家反逆罪により、法の裁きを待つ身となる」 レオナルドの言葉に、ヴァルモンは顔を上げ、呪いの言葉を吐き捨てた。 「愚かな……。この国は、いずれ滅びるのだ! 貴様のような青二才に、何ができるというのだ……!」 衛兵が、彼の口を塞ぎ、連行していく。 次に、レオナルドはリリアに向き直った。 「聖女リリア……いや、リリア。君は、ヴァルモンに利用された犠牲者であるのかもしれない。だが、君が彼の計画に加担し、民を苦しめたこともまた、事実だ。そして……」 レオナルドは、一度言葉を切り、深く息を吸った。 「そして、君が、エルスハイム公爵家の令嬢、アリアンナを、偽りの罪で陥れたことも」 その告白に、ホールは再び水を打ったように静まり返った。特に、アリアンナ追放の際に、彼女を声高に非難した貴族たちは、顔を真っ青にしている。 「すべては、私の過ちだ」レオナルドは、自らの胸を拳で叩いた。「私は、真実を見抜くことができず、偽りの言葉に惑わされ、最も信頼すべき婚約者を、不当に断罪し、追放した。この罪は、万死に値する。私は、王太子として、いや、一人の男として、失格だ」 彼は、その場で、すべての貴族たちの前で、深く、深く頭を下げた。 その時、玉座の間の扉が、静かに開かれた。 そこに現れたのは、茶色い髪の、そばかすのある薬師の娘。そして、その傍らには、彼女を護るように立つ、見慣れぬ黒衣の魔術師と、忠実な騎士の姿があった。 貴族たちは、誰だ、と訝しげな視線を送る。 しかし、エルスハイム公爵夫妻だけは、その娘の姿に、息を呑んだ。 レオナルドは、ゆっくりと顔を上げた。そして、その薬師の娘に向かって、まっすぐに歩み寄った。 「アリア……いや」 彼は、彼女の前に跪くと、その手を優しく取った。 「アリアンナ。私の、ただ一人の……」 アリアンナは、彼の言葉を遮るように、静かに首を振った。そして、彼女は自らの手で、顔に描いていたそばかすを拭い、髪をまとめている紐を解いた。 陽光を紡いだような、美しい金色の髪が、彼女の肩に流れ落ちる。 その瞬間、誰もが息を呑んだ。 そこにいたのは、紛れもなく、追放されたはずの公爵令嬢、アリアンナ・フォン・エルスハイムその人だった。 「アリアンナ様……!」 「生きておられたのか……!」 貴族たちの間から、驚きの声が上がる。 アリアнナは、レオナルドの手を静かに離すと、集まった人々を見渡した。彼女の空色の瞳は、かつての穏やかさだけでなく、厳しい試練を乗り越えた者だけが持つ、深い知性と強さを湛えていた。 「皆様、ご無沙汰しておりました。アリアнナ・フォン・エルスハイムです」 その凛とした声は、玉座の間の隅々まで響き渡った。 「私が、この場にいる理由。それは、ヴァルモンの陰謀を暴き、王国の危機を救うためだけではありません。偽りの聖女によってではなく、この国の土と、人々の手によって、王国を再建していくべきだと、皆様にお伝えするためです」 彼女は、古代魔法の力を、わずかに解放した。 すると、どうだろう。彼女の足元から、柔らかな緑の光が広がり、傷んでいた大理石の床の隙間から、小さな草の芽が、次々と顔を出し始めたのだ。それは、リリアの派手な光とは違う、生命力そのものに働きかける、温かく、力強い奇跡だった。 「……なんと……」 「大地が、蘇っていく……」 人々は、その光景に目を見張った。 「聖女などいなくとも、この国には、まだ力が残されています。大地には、自ら蘇る力が。そして、人々には、手を取り合って未来を築く力があるのです。必要なのは、誰か一人の奇跡にすがるのではなく、一人一人が、自らの役割を果たそうとする意志です。私は、その手助けをしたい。私が辺境の地で学び、身につけたこの力で」 彼女の言葉は、人々の心を強く打った。 偽りの聖女がもたらした災厄の後に現れた、本物の奇跡。それは、神から与えられたものではなく、この国の血を引く一人の令嬢が、自らの努力で手に入れた力だった。 彼女こそが、真の聖女ではないのか。いや、聖女などという、与えられた称号ではない。彼女は、自らの意志で国を導く、真の指導者だ。 人々の見る目が、畏敬と尊敬の色に変わっていく。 リリアは、その光景を、ただ呆然と見つめていた。 自分が必死に演じても手に入れられなかった、人々の心からの信頼と尊敬を、アリアンナは、いとも簡単に手に入れてしまった。これが、本物と偽物の違いなのだと、彼女は痛いほどに悟った。 レオナルドは、立ち上がると、再びアリアнナの前に進み出た。そして、すべての貴族たちが見守る前で、彼は、再び片膝をついた。 「アリアンナ・フォン・エルスハイム。私の愚かさで、君から全てを奪ってしまった。償えるなどとは、思っていない。だが、それでも、私は君に許しを乞いたい。そして、もう一度、私にチャンスをくれないだろうか」 彼は、アリアンナの手を、今度は固く握りしめた。 「私の妃として、再び、私の隣に立ってほしい。君と共に、この国を再建していきたいんだ。アリアнナ、私と、結婚してくれ」 真摯な、心からの求婚だった。 玉座の間は、静まり返っている。誰もが、アリアнナの答えを待っていた。彼女が頷けば、物語は最も美しい形で終わりを迎えるだろう。追放された令嬢は、真の力を手に入れ、過ちを悔いた王太子と結ばれ、国を治める。まさにおとぎ話の結末だ。 しかし、アリアンナの答えは、誰もが予想しないものだった。 彼女は、静かにレオナルドの手を解くと、悲しげに、しかしはっきりと微笑んだ。 「レオナルド様。あなたのお気持ちは、嬉しいです。そして、あなたの犯した過ちも、私はもう、許します。あなたは、これからきっと、素晴らしい王になられるでしょう」 彼女は、一呼吸おいて、続けた。 「ですが、そのお申し出は、お受けできません」 レオナルドが、信じられないという顔で彼女を見上げる。貴族たちも、再びどよめいた。 「私はもう、あなたの隣を歩く、ただの公爵令嬢ではありません。私は、私自身の足で立ち、私自身の力で、この国の未来を切り開いていきたいのです。誰かの妃としてではなく、『王家の顧問魔術師』として、あなたと、そして民と共に、この国を支えていきたい」 彼女の宣言は、力強く、そしてどこまでも自由だった。 彼女はもはや、誰かの付属品ではない。アリアンナ・フォン・エルスハイムという、一人の独立した人間として、自らの物語を生きようとしていた。 その姿は、玉座に座る王よりも、誰よりも、気高く、輝いて見えた。 人々は、彼女の選択に、初めは驚き、やがて深い感銘を受けた。 そうだ、彼女はそういう女性だった。誰かに守られるだけの花ではない。自ら道を切り開く、強い意志を持った人だった。 レオナルドは、しばらく呆然としていたが、やがて、彼女の言葉の意味を理解した。彼は、失恋の痛みと、それ以上の深い尊敬の念を感じながら、ゆっくりと立ち上がった。 「……わかった、アリアンナ。君の、選択を尊重する。君は、本当に……強くなったな」 彼の声は、震えていた。 二人の間に、かつてのような甘い関係が戻ることはないだろう。だが、それ以上に固い、信頼と尊敬で結ばれた、新たなパートナーシップが、その瞬間に生まれた。 偽りの聖女の時代は、終わった。 そして、真実の力を持つ一人の女性が、王国の未来を照らし始める。 物語は、まだ終わらない。本当の再生は、ここから始まるのだ。 --- ### **エピローグ:それぞれの道、そして新たな夜明け** あれから、三年という月日が流れた。 クラインフェルト王国は、あの動乱の夜を境に、大きく、そして確かな足取りで、再生への道を歩んでいた。 **アリアンナ・フォン・エルスハイム**は、宣言通り「王家の筆頭顧問魔術師」という、前例のない地位に就いた。彼女は、その古代魔法の知識と力を用いて、国政のあらゆる面で辣腕を振るった。 枯れ果てた大地には、精霊魔法でマナの循環を促し、再び緑を蘇らせた。彼女は、大規模な奇跡に頼るのではなく、各地を巡っては、その土地に合った農法や治水技術を指導した。人々は、魔法に頼るのではなく、自らの手で土地を耕し、汗を流すことの尊さを思い出した。 エルスハイム公爵家の名誉は、完全に回復された。いや、以前よりも遥かに大きな尊敬を集めるようになった。アリアンナの父は、再び王宮で重責を担い、その公正な判断力で、娘の改革を支えている。 **レオナルド・フォン・クラインフェルト**は、病床の父王から王位を譲り受け、若き国王として国を治めていた。 かつての愚かさは、見る影もない。彼は、あの日の過ちを片時も忘れず、常に民の声に耳を傾け、決して独善に陥ることのないよう、自らを戒めていた。その真摯な姿勢は、国民からの絶大な支持を集め、彼は「賢君レオナルド」と呼ばれるようになっていた。 彼とアリアンナの関係は、恋人でも夫婦でもない、だが誰よりも強い絆で結ばれた「同志」となっていた。レオナルドは、夜遅くまで政務に励むアリアнナの部屋を訪れては、国の未来について語り合う。その瞳には、今も彼女への変わらぬ愛情が宿っていたが、彼はその想いを胸に秘め、彼女の選択を尊重し続けることを選んだ。二人が並んで国の地図を覗き込む姿は、新たな時代の王と、彼を支える賢者の姿そのものだった。 **ゼノン**は、あの事件の後、ついにその正体を明かした。 彼は、クラインフェルト王国と長年緊張関係にあった、西の魔導国家「シルヴァニア」の、王位継承権を放棄した第二王子だったのだ。彼は、両国の不毛な対立を憂い、クラインフェルト王国の内情を探るために、密かに入国していた。ヴァルモンが、シルヴァニアの禁術の一部を盗み出し、悪用しているという情報を掴んでいたのだ。 事件の解決後、彼は両国の和平の架け橋となった。彼の尽力により、クラインフェルト王国とシルヴァニアの間には、歴史的な和平条約が結ばれた。そしてゼノンは、シルヴァニアの初代大使として、クラインフェルト王都に留まっている。 表向きは外交官として、しかし実際には、アリアнナの研究室に入り浸っては、彼女の古代魔法の研究を手伝ったり、軽口を叩き合ったりしている。 「おい、アリア。また徹夜か? そんなことしてると、せっかくの美貌が台無しだぜ」 「あら、ゼノン大使。ご心配なく。あなたに心配されるほど、落ちぶれてはいませんわ」 そんな皮肉の応酬をしながらも、二人の間には、心地よい空気が流れている。友人以上、恋人未満。その関係が、これからどうなるのかは、まだ誰にもわからない。ただ、ゼノンがアリアンナに向ける紫色の瞳には、隠しきれないほどの、深い愛情が満ちていた。 **カイン・アーベントロート**は、その功績を認められ、アリアнナの直属の護衛騎士団「白花騎士団」の初代団長に任命された。彼は、今も変わらず、最も近い場所で、主君であるアリアンナを守り続けている。彼の忠誠心は、王国の騎士たちの模範とされている。 そして、**リリア**。 彼女は、すべての力を失い、ただの異世界の少女に戻った。裁判の結果、彼女はヴァルモンに利用された面が大きいと判断され、死罪は免れた。元の世界に帰る術は見つからず、彼女は自らの希望で、人里離れた修道院に入った。 アリアнナは、時折、その修道院を訪れる。 ある晴れた午後、アリアンナは、修道院の畑で、黙々と土をいじるリリアの姿を見つけた。 「リリアさん」 声をかけると、リリアは驚いて顔を上げた。日に焼け、健康的な色になった顔。その瞳には、かつての傲慢さも、虚ろな光もない。ただ、穏やかな静けさが広がっていた。 「アリアンナ様……。また、来てくださったのですね」 「ええ。土の匂いが、懐かしくなって」アリアнナは微笑んだ。 「私……ここで、花を育てるのが好きなんです」リリアは、はにかみながら言った。「魔法なんかなくても、お水をあげて、お日様に当ててあげれば、ちゃんと咲いてくれる。当たり前のことだけど、すごく、嬉しいんです」 彼女は、ようやく、自分自身のささやかな幸せを見つけたようだった。 二人の間に、もうわだかまりはない。ただ、異なる世界で生まれ、運命に翻弄された二人の女性として、静かな時間が流れるだけだった。 その夜、アリアンナは、王城のバルコニーに出て、満天の星空を見上げていた。 あの断罪の夜会から、すべてが始まった。絶望の淵から、彼女は立ち上がり、戦い、そして多くのものを手に入れた。失ったものも、もちろんあった。だが、後悔はしていない。 「私の物語は……」 彼女は、夜空に瞬く一番星に向かって、そっと囁いた。 「ここから、始まるのね」 その表情は、希望に満ち溢れていた。 追放された令嬢の逆転劇は、終わった。 しかし、一人の女性、アリアнナ・フォン・エルスハイムが、自らの手で未来を紡いでいく、壮大な物語は、まだ始まったばかりだった。 クラインフェルト王国の空は、どこまでも青く、澄み渡っていた。 **(了)**