夜明け迄  8人のうちのひとり、フリフリの可愛らしい服を着た栗色の髪の子がふいに伸ばした手に、思わずひとりでに口が動いていた。 「それに触ったらだめ」  地下深くの石造りの室内に、それは大げさなくらい大きく反響して、壁にぶつかって跳ね返ってくるまるで自分のものではないような低くてどすの効いた言葉が鼓膜を揺らした瞬間、はっと我に返り、さぁと血の気が引いた。屋内で暖房も効いているはずなのに、指先が冷たくなって気を抜くと歯が鳴ってしまいそうなくらいの寒さを感じた。  周囲を見渡せばその場にいた誰しもが一様に無言で私を見つめ、驚きや訝しげな表情を顔に貼り付けていた。  私たち既存メンバーの突然の訪問、それまで秘匿されていた地下への案内に加えて不可解な「壁」についての説明。それらたくさんの出来事を一気に浴びせかけられてからのこれなのだから、混乱もあったに違いない。  件の少女、瀬良穂乃花ちゃんはその大きくてまん丸な瞳を見開いて何が起こったのか理解できないといった風にただ呆然と私のことを見つめていた。 「ちが……」  咄嗟に開いた口は思うように動いてはくれず、地下室に立ち込める重苦しい空気に音が吸い込まれるように尻すぼみになっていき、きっと彼女の耳には私の小さすぎる声など届いてはくれなかっただろう。 「いちばんぼし、ぴーかぴか、にばんぼし、きーらきら……」  不意に、絢香ちゃんの歌う子守唄が張り詰めた糸をたわませた。いつだったか前にもこんなことがあったのを思い出す。申し訳なく思っていると、絢香ちゃんはさりげないウインクを飛ばしてきてまるで「気にすんな」とでも言っているかのようだった。 「ま、今日のところはこんなもんでいいんじゃないか。あらかた説明し終えたろ」 「……そうですね。では、新メンバーの皆さんは本日のレッスンを終わりたいと思います。先輩メンバーの皆さんは直近の仕事の打ち合わせを……」  絢香ちゃんの提案を合田さんが飲み込み、てきぱきと指示を飛ばす。誘導に従ってエレベーターへ向かう途中、ちらと後ろ髪を引かれるように穂乃花ちゃんの方を見たけれど、少し俯き加減で表情は伺い知ることはできず、私は逃げるようにしてエレベーターに乗り込んだ。 ◆  正面玄関の自動ドアをくぐると、ほどよく効いた冷房が肌を撫で、汗はあまりかかない体質ではあったけれど道中の暑さがどこかへ飛んでいってすっとして気持ちがいい。開閉に気付いた見知った受付のスタッフさんが声をかけてきてくれて、会釈を返す。一週間ほど顔を出していなかっただけなのに、在籍期間中となんら変わりのない接し方にどこか安心感を覚えた。 「あぁ、すみません滝川さん。内容を確認したいのですがちょうど今立て込んでおりまして。30分ほど後にまた来てくださいますか」  契約満了の手続きに必要な書類が発行されたので持参してきたものの、どうやらタイミングがよくなかったらしい。事務所の合田さんは固定電話の受話器を片手に申し訳なさそうにその巨大な体躯を縮こまらせていた。いつも思うがデスクが窮屈そうだ。 「今日はメンバーの皆さんも何人か個人レッスンが入っていたのでもうすぐいらっしゃると思います」  とのことで、しばらく待っていれば誰か出社してくるかもしれない。それまで時間を潰そうと、事務所ブースを出てエントランスに戻ってきた。  ふと、エレベーターが目に留まる。約10年にも及ぶグループ在籍期間、印象に残る場所はいくつもできたけれど、強烈に心に刻まれているところといえば悲しいかな真っ先に思い浮かんでしまう場所というと、そこ以外考えられなかった。  無意識というわけではないけれど意識的という感じでもなく、私の足は自然とその方向へと向いてしまっていた。 ◆  轟音が響き、排出口から鉄片が吐き出される。  肩で息をして水しぶきでずぶ濡れになりながらスロープを滑り落ちていく鈍い色をした二枚の金属片を視界の端に捉えていた。  一人掛けのソファを掴む腕はふるふると小刻みに震えており、腕の筋肉はいくらか繊維が切れてしまったのか痛みと熱を放って生の実感を鼓動とともにひっきりなしに脳に送り込んでくる。 「ゆっち……!」  ざぶざぶと波をたてながらつぼみちゃんが壁を取り囲むよう形成された池から這い出していき、排出された鉄片に刻まれた文字を読もうとする。  壁がこのタイミングで指令を吐き出したということは、今ここにいるつぼみちゃんやみかみちゃん、それに私の言い分に対して何かリアクションをとったということだろう。  鉄片を手に取って文字列を視線で追うつぼみちゃんは内容を理解した瞬間、目を見開いて動きを止める。頭の先からつま先までぐっしょりと濡れた彼女の髪は肌に張り付き、それを逃れたショートボブの髪の先から雫が数滴したたり落ちた。  懇願が却下されて悲しんでいる様子もなければ意見が通って喜んでいる気配もなかった。首を傾げて心配そうに見守っていたみかみちゃんと連れ立って近寄ると、困惑したようにつぼみちゃんは印字面をこちらに向けて見せてきた。 【東條悠希の卒業発表をせよ】  悠希ちゃんが今後活動していくことが困難であることは既に身に染みて理解できていたから、壁が一度出した指令を撤回してこう結論づけたのは最善とはいかずとも、次善であると思えた。契約解除なんて切り捨てるような表現のしかたよりはよっぽどいい。  けれど、問題はもう一枚に刻まれていた予想もしていなかった新たな『指令』だった。 【新メンバー8名加入】 「みーちゃん、これって」  狼狽えながら、傍らで同じようにその文字列をみたみかみちゃんも必死に言葉を選んでいるようだった。  あぁ、  なんだっていうんだろう。  どこまで勝手を言えば気が済むんだろう。  勝手に私たちを集めておいて、使えないってわかったら一方的に切り捨てて。  それだけに飽き足らず、数が減ったと見たら注ぎ足すみたいにまた増やす。きっとこの先同じようなことがあれば、また同じようにどこかから誰かを勝手に選んで空いた穴を埋めていくのだろう。  私たちはものじゃないのに。ただの数字なんかじゃないのに。  ふざけないで。 「ふざけないで!」  自分でも驚くほどの大音声に鼓膜がびりびりと震えて、きんと耳鳴りがした。  そんなこと、認められない。認めたくなんてなかった。  新しくここへ訪れる人たちなんて、きっともうとっくに壊れてしまっていた私の世界をさらにかき乱す異分子としか思えなかった。そんなものを迎え入れるくらいなら、もういっそ自分の手で終わらせてしまった方がよっぽど綺麗な幕引きだろう。だっていうのにこの壁はそれすらも許そうとはしない。ただ継続を命じてくるのだという。 「こんなにつらいならもういっそのこと」  はたしてその言葉の続きは、肌に触れた肌の感触によって遮られた。水に濡れたふたりの体温が、錯乱しかけていた私の思考をじんわりと和らげていく。 「みーちゃん、そんなこと言わんといて」 「そうだよみうっち。つぼたちのことだって受け入れてくれたでしょ」  あぁ、  そんなこと、頭ではもうとっくにわかっていたはずなのに。まるで心が引き裂かれるみたいな気がして声に出さずにはいられなかっただけだ。  まるで子供のよう。  そしてその数カ月後、つぼみちゃんと入れ替わるようにして8人が22/7に新しく加入したのだと知らされた。 ◆  エレベーターの扉が開くと、私が言えた立場じゃないけれど相も変わらず辛気臭い空間が眼前に広がった。  事務所の人間が手を入れている気配もないというのに、いつだってここは手入れが行き届いており、絨毯はしわひとつなく、石造りの床面には埃ひとつ見当たらない。不思議で不気味。けれどそんなこともあるのだろうと変に納得させられるだけのある種超常めいた威厳のようなものが壁の部屋にはあった。いわゆるひとつの異空間というものなのかもしれない。  後輩メンバーたちが加入してきてから、この部屋を利用することは少なくなった。考えてみれば当然で、まぁ要するに落ち着ける空間ではなくなっていたからというのが大きかった。どうしても嫌なことばかりを思い出してしまうから。  壁に近づくと、指令の排出口の上には変わらず不細工で、けれどもどこか憎めないふてぶてしい顔をしたぬいぐるみが置かれていた。 『ウチな、もうみんなが悲しい顔するとこ見たないねん』  これを持ち込んできた張本人のひとりだからだろうか、卒業の間際に都ちゃんが言っていた言葉がふいに脳裏をかすめる。 「麗華やジュンやつぼみと違て、なんかな、ウチが一番卒業理由としては後ろ向きやねんな」  そう語る彼女は少し眉を下げながらつとめて明るく笑っているように見えた。 「みんな今でこそ顔では明るくしとるけど、しんどいもんはどうしたってしんどいやんか。せやから、たぶんこれから先どっかでどうしようもなくなるって思っとる」  別れの寂しさは薄らぐことはあっても、完全に無くなることなんて決してありえない。人には人それぞれのキャパシティというものがあり、彼女はおそらくその容量を悟ったのだ。それは心が持つ本能ともいえる防衛策であり、ひび割れて溢れてもなお受け止め続けることを強要されるなんて馬鹿げている。手を引くこともまたきっと勇気なのだ。 「みうも、無理したらあかんで」 「無理だなんて」  咄嗟に言い返そうとしたけれど、確たる根拠が思い浮かばずに口を噤んだ。そんなばつが悪そうな表情を浮かべる私の髪を、都ちゃんは普段の粗雑な振る舞いが嘘みたいに優しく撫でてくれたのを覚えている。 「なんかあったらいつでも相談乗るで。なんもない方がええけど」  そういったことを思い返していると、なんの前触れもなくもう半分ほどが崩落した壁の向こう側から機械の駆動音が響いてきてびくりと肩を震わせた。  がしゃん、がしゃんとまるで硬いもの同士が激しくぶつかり合うような、刻印音。ほどなくして印字が完了した鉄片が無造作に吐き出され、スロープを滑り降りてくる。わざわざ耳障りな音を響かせなくとも静かに指令を出せるんじゃないかと少しむっとして、できたてほやほやのそれに近づいていく。今の私はもう22/7のメンバーではなかったけれど、目の前で起こったことを知らんぷりしておけるほどグループから遠ざかったつもりもなかった。  鉄片を拾い上げる。 【12月─── ◆ 「おっはようございまーす!」  メンバーがメインで控室代わりとして使わせてもらっている一室の定位置で座っていると、扉が勢いよく開いて聞き馴染みのない元気すぎるほど元気な声が飛び込んできた。突然のことに思わず縮こまってしまう。 「あっ」  声の主は新しくグループに加入してきた瀬良穂乃花ちゃんで、目が合うとしまったというような表情を浮かべて口元に平手をやる仕草をとった。 「ごめんなさい!みうさんは騒々しいのって苦手でしたよね」  大きく頭を下げる彼女に「大丈夫だから」とフォローを入れるも、少し離れた椅子に腰を下ろした後も少し落ち着かない様子でそわそわするのが視界に入ってきてしまい、なんだか落ち着かない。  誰か早く来てくれないかなと祈りながらしばらく気まずい沈黙が流れた後、不意に穂乃花ちゃんが椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がった。 「あの!」  ぴぇ、となんだかまるで蛙が潰れたみたいな声が口を衝いて出る。  穂乃花ちゃんは意を決したみたいに神妙な顔つきでこちらに歩いてきて、コートのポケットをまさぐったかと思うとしゃがんで両手に中身を広げて差し出してきた。 「あの、元気がないのってたぶん糖分が不足してるんだと思うんです。お菓子、食べませんか」  見ると、広げた両手には山みたいにお菓子が盛られていた。キャンディ、クッキー、チョコレート、マシュマロ、ミニドーナツ。チョコレートは温度の関係か少し溶けて個包装の袋の内側に張り付いてしまっていた。 「私のおすすめはですね……ありゃ?」  そのうちのひとつをピックアップしようとしたのだろうけれど、残念ながらこんもりと両手に盛られたお菓子たちが溢れそうになって、それをつまむことも指さすこともできずに彼女はもじもじと身体を揺すった。  顔を合わせたばかりのその日に、あんなことを言ってしまったというのに、この子は諦めずに寄り添おうとしてくれているのだろうか。  気付いたときには彼女の背中に腕を回して抱き寄せてしまっていた。  受け容れたい気持ちと拒絶したい気持ち、いろんな人の言葉と私自身の本音が混ざり合って脳裏に渦を巻く。  何も知らない、ただアイドルになるためだけにグループへ加入してきた純真無垢な子たちを壁に関わらせるのを避けたかったと言えば聞こえはいいけれど、去っていったひとたちとの思い出に軽々しく触れてほしくなかった気持ちがまったくないと言えば嘘になってしまう。そんな清濁の混ざり合ったむき出しの感情をぶつけておいて、あれは誤解だなんて虫のいい話があっていいものか。 「わわっ」  抱き締めたことで彼女両手に盛られたお菓子たちがこぼれて床にいくつか散らばった。 「ごめんね、ごめん」 「なんで謝ってるんですかぁ」  きつく抱きしめて、その体温と鼓動を感じながら思った。  彼女は、彼女たちは、数字でもものでもなくて私となんら変わりのないただの人だ。血が通って心臓が動いているのだ。 「私、じつはみうさんの大ファンなんですよぉ。こんなに早くハグしてもらえるなんて、アイドルになってよかったなぁって」  その言葉を耳元で聞いて、あぁ、まるで先輩のようじゃないかって思った。 ◆ 「あっ」  地上階でエレベーターの扉が開くと、穂乃花ちゃんが驚いたような声を上げたあと、ぎゅう、と身体が締め付けられた。ぐぇ。 「みうさん来てたんですか?」 「こら、ほどほどにしときなよ瀬良。みうさん降りられないでしょ」  穂乃花ちゃんのすぐ後ろで同じくエレベーターを待っていたと思われる純佳ちゃんの一声で強烈なハグが緩み、解放された片手で胸元の栗色の髪を撫でると、まるで犬か何かのようにぶんぶんと振られる尻尾が見えた気がした。 「ちょっと書類を届けに来たんだけど、手が離せないらしくて時間潰してたところ」 「そうなんですか。もしよかったらこれから私たちボイトレなんですけど、見て行きませんか。瀬良が喜ぶんで」 「うれしい!」  にこにこしている穂乃花ちゃんの頭を二人して撫でながら、このあとも別に急ぎの用事があるわけでもないなと、頭の中のスケジュールと照らし合わせる。どうせ書類の提出が終わったら電車に乗って帰るだけなのだし。 「そういえば二人はぬいぐるみとか好き?」 「好きですよぉ」 「人並み程度には好きです」  なら、任せてしまってもいいかな、と心に決めて、いったんは別れを告げる。久し振りにわざわざ出社してきた目的を終わらせておかないと。 「絶対来てくださいよ。瀬良が喜ぶんで」 「純佳ちゃんも嬉しいくせに〜」 「……瀬良が喜ぶんで!」  そんなことを言い合いながら、二人はロッカールームに向かうべくエレベーターに乗り込んでいった。  事務所スペースへと向かい、丁度よく手が空いたと見える合田さんに封筒に入った提出書類を差し出して中身のチェックをしてもらう。 「あと、これを」  鞄からもうひとつ、ついさっき地下で拾った鉄片を差し出すと、受け取った合田さんはみるみる顔色を変えて焦りの色をあらわにする。 【12月 新メンバー8名加入】  やっぱりすこしだけ残念だ。どんな子たちがここへ入ってきてくれるのかを間近で見られないというのは。けれど、ふと、その気持ちは22/7が変わっていくことを楽しみにしているのだと気付いて、少し驚いたのだ。あんなに変わっていくことを恐れていたというのに。  あの子たちなら、きっと大丈夫だ。私たちという既にある集団に飛び込んでくるということを経験したあの子たちなら、新しく来る子たちの気持ちだってわかるはずだから。  それなら、22/7はきっと大丈夫だ。 了