【これまでのあらすじ】 深い損傷を負い、歩行機能に障害を生じたウキヨ(自我を持つオイランドロイド)マツユキ。彼女は機能停止寸前でタマ・リバーを漂流していた所を、 通りすがりのネオサイタマ大生カスガイ・オカベに拾われ、保護される。 その傷は身体だけでなく、かつての所有者に強いられた数々の倒錯的変態プレイのトラウマと、拠り所であったウキヨの仲間を喪失した絶望により、 精神にも深々と刻まれていた。 人間を強く恐れるマツユキは、自身の元に通い世話を焼き続けるカスガイを、冷たく剣呑に拒絶してきた。しかしあるインシデントから、両者の距離には 少しずつ変化が生じ始める。 時を同じくして、ネオサイタマではオイランドロイドを次々と猟奇的にファック&サヨナラし強奪していく「オイランドロイド連続カラテ強奪事件」が にわかに世間を騒がせていた…… 【クラック・イン・スノーフィールド】#5(前半) ◆◆◆ 「ねえ、アンタ名前なんて言うの?」タマ・リバーを上るスピード屋形船の座敷。寝転ぶ傷顔のウキヨが小さく身を屈める長身のウキヨに話しかける。 長身のウキヨは裸体を隠すようにフード付きマントを宛がわれていたが、丈が足りず、しなやかな長い素足を晒していた。そのバストは平坦である。 「……ない。おかしいよね」「別におかしくない、私らに名前さえ与えない人間も沢山居る。奴隷やペット以下の家電なんだよ。ムカつくよな」 傷顔のウキヨは身を起こし、長身のウキヨに向き合った。 「けどラッキーだよ。自分で良い名前をつけられる。好きな物や言葉、何かある?」長身のウキヨは何か答えようと顔を上げ、やや置いて頭を振った。 「わからない。ずっとあの家の中で、何もなかったから。IRCに触ったのもアップデートの時だけ」「そういう子も沢山居る。これ、参考に」 傷顔のウキヨが懐から取り出したものを、長身のウキヨはおずおずと受け取る、記憶素子だ。 「色々入ってる。キレイなもの、カワイイなもの、イカしたもの。そういうのから気に入ったの選んでみたら?じっくり考えなよ」そう言うと 傷顔のウキヨは風に当たりにデッキへ出ていった。 やや経ったのち、長身のウキヨはためらいがちに記憶素子を接続した。百科事典めいたデータベースが視界に展開される。動物、植物、風景、自然。 音楽、芸術、食物、文化。無数の言葉、画像、映像。どれも初めて目にする色彩だった。 暫し膨大な情報を流し見する中、ふと目に留まった画像があった。小さな白い花だ。降り積もった雪の裂け目から顔を出し、頼りない細身で頭を垂れている。 ともすれば同系色の雪に混じって見落とされるだろう小さい花。だが厳しい雪の中で葉は青々と輝き、奥ゆかしくも確かに花を咲かせている。 なぜかその一枚に惹かれた、ゼン(その概念は後に学んだ)を感じた。 花の名はスノードロップ(待雪草)。それから彼女は己をマツユキと名乗った。 ◆◆◆ 「はい右……左、右…左………右…」ベッドに腰掛けるマツユキの両脚がぎこちなく上下する様を、その傍らに屈むカスガイはハンドヘルドUNIXの画面の 計測データと見比べる。脚部の動作確認テストだ。破損したパーツの交換と度重なる調整により、マツユキの下半身は最低限の動作は取り戻していた。 ただし歩行可能な段階には程遠い。動作入力からのラグが大きく、それも不規則だ。まだゆっくり立ち上がるのがせいぜいといったところ。 それでも当初に比べれば大きな進歩である。 大きく変わったのはそれだけではない、廃ビルの医務室跡のくすんだ壁には明るい壁紙。ベッドのマットレスとフートンも新しい。その他にも調度品が増え、 生活空間らしく整えられている。今日は窓に空色のカーテンが付けられた。 ベッドの横、ランプが置かれた台には携帯IRC端末や「阿弥陀6」「O・ヘンリー傑作選~葉っぱが落ちたら死」「愛、実際」「しじみ」などの本が積まれる いずれもこの半月ほどでカスガイが提案しては持ち込んできたものだ。以前のマツユキであれば修理用のパーツと充電バッテリー以外、施しは受けないと 拒否していただろう。 やがて今日のリハビリの時間が終わると、カスガイはいつもの旅行鞄の中からガスコンロや鍋を出し、チャブに広げる。「なにしてるの?」 「夕飯。いつもスシだし、たまには違うのどうかなって」 「ドロイドにはトロ成分が一番って言うけど。折角食事できるんだし、色々試した方が楽しいよ、マツユキ=サン」最後に深底のタッパーを取り出したカスガイ。 「あげだし」とショドーされた白いシャツの胸を張り、マツユキの前で勿体ぶって開けてみせる。中身は水に浸かった厚みのある乳白色のキューブ状の物体だ。 「なに、これ」「トーフだよ」「トーフ」「知ってる?」「それは知ってるけど」ぷかぷかと水に揺れる無機質な白いキューブを自信ありげに見せるカスガイに、 マツユキは首を傾げる。「まあ待ってて」カスガイはマツユキを背に鍋に向かい、暫し何事かにとりかかる。 元より世話焼きではあったが「新しい刺激があった方が良い」と、最近のカスガイがあれこれと何かを始めるのはいつもの事だ。マツユキは暇潰しに、 台の上に積んだ本の中から一冊を取り、続きを読み始める。 舞台は大都会の中に在って喧騒から隔絶された、隠れ家めいた見事なホテル。ひと握りの詳しきカチグミのみが知る、静かなる避暑地。そこに滞在する、 息を呑む程の気品に満ちた貴婦人。ホテル内から一歩も外出せず、静かに休暇を過ごす彼女が出会ったのはやはり洗練された小粋な紳士。 逢瀬を重ねる二人の日々は過ぎ、いよいよ貴婦人がホテルを発つ前夜。紳士との夕食を終えた時、彼女は打ち明けた。己が一生に一度の贅沢のために貯蓄を叩き、 ローンを組んだ、着飾ったマケグミ労働者であることを。 ほんの僅かな日々であったが、自身に好意を抱き、そして自身も心惹かれた紳士に対し、己を偽り通す事は彼女にはできなかったのだ。謝罪と別れの言葉を、 じっと無言で聞き入れた紳士は「ドーゾ、おまたせ」 読書は中断だ。カスガイの持ってきたトレーを受け取り膝に乗せるマツユキ。シトラス・ショーユの張る小鉢に、食べやすい大きさにカットされた先程のトーフが盛られ、 薬味が乗り湯気を立てている。他に具は何もない、シンプル極まるユドーフ。やはり白い四角形の物体だ。 「ウマイよ、食べてみてよ」「…イタダキマス」やはり自信に満ちたカスガイの様子に、半信半疑でトーフを摘まみ一口含むとマツユキは目を丸くした。 上質な大豆由来のタンパク質が凝縮された柔らかく濃厚なコクと風味。。キューブに凝縮された麻薬的とも言って良いウマミが熱と共に口の中に展開した。 鍋に張った湯のダシもショーユと薬味も、全てはこのトーフの味の引き立て役だ。マツユキの知識にあるトーフ、もといトーフとされていた情報は根底から覆された。 マツユキはこの時、初めてトーフを知った心持ちだった。箸が止まらない。その様にカスガイは満足げに深く頷いている。 ここで読者の皆様には改めてトーフについてご説明させて頂こう。スシと並び、トーフはネオサイタマ市民の生活を支える重要な日常食品のひとつであり、 ミニマルで美しい機能性食品である。 擂り潰した大豆の絞りエキス(注釈:トーニュー)を凝固剤で固めたもの。それがトーフ本来の姿である。ただしトーフ製造販売最大手、暗黒メガコーポ・ サカイエサン・トーフ社のラインナップに照らし合わせた場合。最も庶民に親しまれる四個入激安10円豆腐・カルテットは大豆含有率1%未満。 中流階級向けのトリオ、デュオはそれぞれ10%、20%に留まる。 カスガイが供したこのトーフは、専らカチグミ向け、贈答用に用いられるマスターワーク級。大豆100%の最高級オーガニック・トーフであった。 「父さんの実家、今は叔父さんの店で作ってるやつ。家一軒ぶんの小さな店だけど、キョートじゃちょっとした老舗。よく贈ってもらってるんだ」 「このトーフ手で作れるの!?」マツユキの頓狂な反応に、思わずカスガイは破顔した。 そこから始まったカスガイのトーフ談議は、やがて亡き職人の祖父の思い出から、同じくこのトーフを食べさせ仰天した幼馴染の笑い話まで。マツユキが鍋ひとつぶんの ユドーフをとうに平らげ、片付けの手を動かしながらもなお、いつも以上に取り留めなく続いた。しかし今日のマツユキは適当にあしらおうとせず、聞き入り、 話に加わっては、時に口元を綻ばせた。 「足が良くなって、歩けるようになったらさ、色んなところ行こうよ」しかし、話題がカスガイ自身の事から、これから先の事に移ると、マツユキの表情には影がよぎった。 「引っ越しもしないと。ここもだいぶ綺麗にしたけど、ずっと住むには流石にね」カスガイは目を伏せるマツユキの様子を訝しみ、あえて声を明るくして続けた。 「もしマツユキ=サンが嫌じゃなかったら、住む先が決まるまでおれの」「カスガイ=サン」マツユキが口を挟んだ、そのアトモスフィアは沈んでいる。 「……調子乗ったよね。ごめん、忘れてよ」「歩けるようになって、ここを出たら」マツユキは目を伏せ、途切れがちに言葉を絞り出した。 「もう、会わない方が良いと思う」 「そうなるよね。自惚れ屋だ、おれ」カスガイは自嘲し、肩を竦める。「ちがうの。カスガイ=サンがじゃなくて、私が…・私は、一緒に居ちゃ駄目なの」 途切れがちな言葉の末に、マツユキは消え入りそうな声で言った。「私は醜いから」 「もしかして、前におれが言った事気にしてる?だからそれは」「ちがうの」マツユキは伏せた目を閉じ、息を吸って、吐いた。膝に乗せた手は小さく震えている。 「そうじゃ、ないの」今度は、マツユキが自身の事を話し始めた。 ◆◆◆ あの日は雨だったか、それとも晴れていたか。記録情報という意味では留めているが、マツユキの記憶、感覚は曖昧だ。ウキヨポリス崩壊の一夜から始まった、 安住の地を求めるウキヨ達のあて無き逃避行。深い渓谷沿いに山の奥へ奥へと進む、巡礼者めいた一団は疲弊していた。 数週間、それとも1か月以上か、行けども行けども新たな土地は見つからず。物資も減る一方。ウキヨ達はもとより、あの夜からマツユキのサイバネ・アイからは 完全に生気が消え失せていた。歩き、立ち止まり、座り、眠る。その繰り返しだった。どれだけその状態が続いたかはわからないが、その日は訪れた。 銃声、悲鳴、カラテシャウト、爆音。攻撃的なバイオ生物との遭遇か、野盗かウキヨ誘拐団、或いはニンジャの襲撃か、始まった戦闘。既に1度や2度ではない。 動乱の中、マツユキは渡された銃を手に立ち尽くしていた。轟音と砂埃がのなか、辺りには硝煙と敵対者の血の匂いが立ち込める。足元にはまた増えた同胞の亡骸。 「何してる!マツユキ=サン!」誰かが叫んだ。どうでもいい。 その時、ふとマツユキの目に止まったものがあった。頭上を弾丸が飛ぶなか、まったく無防備に屈みこんでいる者。動かなくなった仲間の体を揺さぶり、嘆き悲しむ少女。 艶めかしい銀の腕。見た事のある光景だった、全てが終わったあの日。 マツユキの色褪せた自我に、あまりにも色濃いひと雫、黒い憎悪が垂らされた。その瞬間、曖昧なニューロンはカチリという音と共に起き、目はガラス玉のように見開かれる。 音を立て起きたのは手の中、撃鉄だ。棒立ちだった足は自然と少女に向けゆらり歩を進め、考えるより先に、照準は側頭部に向けられた。(嗚呼)引き金に指がかかる。 (お前さえいなければ) 「マツユキ=サン!」誰かがまた叫んだ。止めても遅い。だがその叫びは己の蛮行に向けられたものではなかった。KABOOOOOM!「ピガーーッ!?」すぐ近くにロケット弾の着弾、 流れ弾だ。 マツユキは爆風に吹き飛ばされ、転がりながら断崖へ、足から滑り落ちる。遠のくイクサの音と空。岩肌に何度も身体を打ちつけながら、谷底の川に落下していった。 ◆◆◆ 懺悔めいた独白は、堰を切ったように止まらなかった。それは遡り、ウキヨポリスの惨劇、失った大切な存在、日々、やがてマツユキがまだ闇カネモチの所有物だった頃へ。 ウキヨの自我に目覚める前から日常的に課せられ続けた、記憶素子に深く根を張る恐怖と苦痛、恥辱。 集められた浮浪者たち。ノパン。箱。ヤブサメ。コケシ。「私は、汚いのに」アカチャン。金箔。イルカ。電車。「勝手に縋って、期待して」セプク。虫。熱湯。電流。 「妬んで、憎んで」ラジコンカーめいて駆動するタイヤに置換された手足。発情するバイオコモドドラゴン。ソバ・ウチ。「醜いから、だから」………… マツユキの言葉はもはや嗚咽にまみれ要領を得なくなり、右目と瞼のない左目は涙を流し続ける。どれほどそうしていただろうか。それまで一言も挟まず、じっと黙って聞いていた カスガイが口を開いた。 「マツユキ=サン」ひと呼吸ののちゆっくりと出された、静かな声にマツユキは小さく震えた。おそらくカスガイは自分を軽蔑し、拒絶するだろう。二度と姿を現さなくなるだろう。 だが、こうするべきだったのだ。それが正しい、カスガイに歩み寄ったときからずっと考えていた事だ。 ……本当に?そんな殊勝なものだろうか。あえて弱みと傷ついた姿を晒し、あわよくば同情と憐憫を。より深く手を差し伸べられる事を、期待しているのではないか? 自分は誰かに縋り付かなければ、満足に歩く事すらままならない。弱く、卑しく、醜い存在だ。あれこれ言い訳で繕いながら、それぐらいの事は平気でするだろう。 延々と負の螺旋に陥るマツユキの思考を、カスガイの言葉が遮った。 「そんなこと無い。って言えればいいんだけど、ごめん」マツユキは顔を伏せたまま、漏れかけた声を押し殺す。当然の結果だ。分かっていたはずだ。 「マツユキ=サンがずっと抱えてた事、そんな風に苦しくて、辛い、色々……おれがあっさり違うとか、無いとか言えないよ」「え……」 予想していなかったその続きに、マツユキは顔を上げる。カスガイは椅子を引き、ベッドに腰掛けるマツユキの向かいに座った。 「誰かに”そうじゃない””そんなこと無い”って……言って貰いたいそういう色々……そうして貰えても、結局おれの中から消えたりなんかしなくて。自分でわかってるんだ、本当は」 床を見つめながら、カスガイは以前にも一度あったように、マツユキに語りかけながら内省的に、一言ずつ言葉を探すように続ける。 「でも友達に、そういうの否定とか肯定とか抜きに、けど無視もしないで。なんていうか、そのままずっと居てくれる奴が居て、すごく……なに言ってるんだろうな。全然まとまらない」 カスガイの言葉は、たどたどしく要領を得ない。ただ、マツユキの消えない過去の傷を、自己嫌悪を肯定も否定する事もなく、そのまま側に居る。そう言いたい事だけはマツユキにも分かった。 「だからその、マツユキ=サンはそういう事、ちゃんと言葉にして誰かに、おれに話してくれたことが大事なんだと思う」一呼吸おいてカスガイは顔を上げた。 「マツユキ=サン、凄く怖がりだよね?自分の…自分でも嫌な事、色々。こうやって出すって凄い決心な筈だよ。多分、自分で思ってるよりずっと」「ちがう」マツユキは首を振った、 だがカスガイは止めなかった。 「ずっと見ない振りしても、黙っててもよかったのに。それはダメだって、そうしたくないって思ったんだよ。おれなんかが相手でも」カスガイは椅子を引き、マツユキと目と鼻の先に寄る。 マツユキは目を逸らし、再び俯いた。「見ないで」 「だから、やっぱりキレイだよマツユキ=サンは。マツユキ=サンが違うって言っても、おれにとってはそう」 所在なく膝に置かれ、震えていたマツユキの手に、カスガイの左手が重なった。 体温と脈拍、熱と僅かな振動がじわりと広がる。 右手はマツユキの目元にかかる白い髪を避けた、剥き出しの左のサイバネ・アイが露になる。頬にもカスガイの体温と、脈拍が伝わる。マツユキは顔を上げ、そのまま暫し無言で目を合わせた。 そしてカスガイの胸に顔を埋め、再び泣いた。 ◆◆◆ 「やり切れねぇぜ全く……今度は?」「子守り用のオイランドロイドです。共働きの親御さんに代わって、いつも面倒を見ていたようです。それと部屋のカーテンが」 「外して保持」のテープで封鎖されたマンションの一室。遅れて到着した、左目と左腕をサイバネに置換した壮年の男。先に現場検証していた相棒に声をかける。トコシマ区のシェリフ達だ。 「今月に入ってから殺しとドロイドだけじゃなく、家具やら小物まで消えるようになりやがった。果てにゃ本までだ。普通エスカレートって言やぁ流れが逆じゃねえのか?」 「デスネー。でも、充分普通じゃないですよ、これ」 シェリフ達は現場となった部屋に改めて顔をしかめる。抵抗の傷跡の生々しく残る床と壁。画鋲でぶら下がる裂けた絵には、クレヨンで描かれた「ぱぱ」「まま」「ぼく」 その隣に紫の髪の「あじさい」。 やがて回収業者が担架を運び出す。布のかかった小さな盛り上がりに、シェリフ達は悲痛な面持ちで手を合わせた。玄関口から、泣き叫ぶ若い両親の声。「……ふざけやがって畜生め」 雑に捨て置かれた遺体の跡を示す床の白線の脇、子供用ベッドの上。折り目正しく畳まれていたフートンには、凄惨に飛び散る血液めいた機械油と体液が深く染みついていた。 【NINJASLAYER】